おそらくもう交わることのなかった人生が、訃報という形で交差するということが、今後、自分が死ぬまで起こり続けていくのでしょう。


久しぶりに更新したと思ったら、また訃報の話で、もうこのブログは人が亡くならないと更新されないかも知れませんね(苦笑)。

強く思うところがあるわけではないのですが、今わたしは意識的に、ブログだけでなくSNS全般で何かを発信することをやめて、というか休んでいます(閲覧はしています)。一番の理由は過労による時間の無さと面倒くささなのですが、一生かけても消化できない量の発信物で溢れ返る世の中に、さらに何かを発信する動機が見出せないという反抗心のような気持ちもあります。


そういった諸々を振り払うのは、もはや人の死しか無いのかよと自分に呆れつつ、何故書くのかというと、自分が知っていることを書き留めておくことが、ある種の供養にもなるのかも知れないと思ったからでした。

ただ、今回は亡くなったのが昔に付き合っていた人だったので、色々気を遣うのですが、それ故にまた書き残しておきたい気持ちもあり……差し障りの無い範囲で書いてみようと思った次第です。


と云いながら、それはもう昔々、長旅に出るよりさらに前の話で、正直なところ、差し障りがあるほどの詳細を覚えていなかったりします。

その人自身のことや家の間取りなんかは朧げながら記憶していますが、どんな会話をしていたのか、どんな風に一緒の時間を過ごしていたのか、共通の趣味があったのかなどがきちんと思い出せない。実はわたしの捏造なのでは⁇と疑われても強く反論できないくらい記憶が曖昧なのです。当時の雑記帳でも出てくれば多少は蘇ってくるでしょうが…

しかし、ひとつだけはっきりしている出来事があって、それは、クリスマスに「ケイタマルヤマ」の財布をプレゼントしてくれたことでした。赤とピンクのブロック模様の二つ折り財布。それは、今のわたしでもかわいい、使いたいと思えるデザインでした。


共通の友人から電話で訃報を受けた時、それが突然死だったこともあってただ驚きと、悲しみになる前の未熟な感情が渦巻くばかりでしたが、わたしはその時たまたま大阪に帰っていて、実家で真っ先にしたことは、その財布を探すことでした。滞在中、暇を見つけては狂気に取り憑かれたように探し回りましたが、結局は見つかりませんでした。

わたしは典型的な「物を捨てられない」性質で、なおかつ物欲が人一倍強いので、いくら関係が終わった相手に貰ったからといって、まだ使える物をわざわざ捨てることは考えにくいのです。使い古して捨てたんだろうか?でも、他の古い財布はちゃんと置いてあるし…

恥ずかしながら、わたしはこれまでの生涯、安定的な恋愛関係を築けたことがほとんどありません。そんな中で、ちゃんとしたクリスマスプレゼントをくれた相手というのは、たとえ現在、何の交流も無かったとしても、人生から消去されることはない貴重な存在だったのだと思い至って、初めて涙が出てきました。


その人との付き合いは、いま思えばわたしの勝手でフェードアウトしたのでした。母親が亡くなった時、あまり親身になってくれなくて(と、わたしが一方的に感じて)、連絡をわたしの方から絶ったのです。ある時、電話があって、嫌いになった?と聞かれ、わたしは曖昧な返事をし、そのまま終わったという記憶です。それから1年以上が過ぎて、わたしが海外に旅立つ前、その人と、共通の友人がささやかな飲み会を開いてくれたのは、どういう成り行きだったのかよくわからないものの、その頃には気まずさやわだかまりは無かったということでしょう。


ここまで読むと、わたしがその人をずっと忘れられずに執着しているようにも見えそうですけど、訃報を聞くまでは1ミリも、頭の片隅にもその存在は消えていたという薄情ぶりでした。おそらく向こうもそうだったのではないかと思います。

旅行中に連絡を取り合うこともなく、帰国してから顔を合わせたのも何年も経ってから、共通の友人たちの飲み会で一度きりでした。その時も、別に気まずいとか嫌なことがあったわけでもなかったのに、SNSで繋がることも特にせず、飲み会で再び会うこともなく、単身赴任で関東に来ていたことも知らなかった。

だから、訃報によってまさに亡霊のようにその存在が現れたのであり、珍しくブログを書いてしまうほど心を占拠されてしまっているのは、いったいどういう感情の仕業なのかと、自分でも混乱しています。

他の、例えば一方的に好きだった人や短期間だけいい感じになった人が亡くなったら、同じ気持ちになるかと想像してみるけれど、いまいちピンと来ません。その決定的な差が、あの財布に象徴されているような気がします。


この大断捨離時代、プレゼントは花や食品などの消え物の方が相手に迷惑がかからない、という考え方が主流ですが、やっぱり物には何らかの、魂や気が宿るのだとわたしは思います(だから迷惑にもなりますが)。気持ちが形にならないからこそ、人は何とかしてその一部を物に託し、物に結晶させるのではないでしょうか。

財布を見つけたいのは、それをくれた人が確かに生きていて、わたしの人生のある場所に確かにいたという事実を証明できる、わたしにとって唯一の手がかりに思えるからなのかも知れません。「過去というわれわれの時間の部分は、神聖で特別なものだ」と書いたのはセネカでしたが、たとえ記憶が大量の埃に埋まっていても、過去だけが人間にとって確かなものなのだと痛感します。


人を食ったように飄々としていて、周りからはちょっと変わり者と思われていて、真面目な顔して突拍子もない言動をする天才肌という印象の人でした。その不思議さの正体に近づきたくて、好きになったんだっけな、と思い出します。

あの時もし付き合いをやめていなかったら、旅にも出ずにこの人と歩む人生という別世界もあったのだろうか、なんていう妄想はあまりにも感傷が過ぎるというものですが、せめて、関東にいたのなら一度くらい飲みに行って、ゆっくり来し方行末を聞けたらよかったな……と、今さら詮のないことを思うのでした。R.I.P.