千葉雄大が『ポーの一族』ミュージカルでアラン役を演じると聞いてからというもの、それまですっかり抜けていた『おっさんずラブ-in the sky-』オタクの魂が再び帰って来て(お盆かよ)、また心が忙しく汗をかいているのですが……。
今回はその話ではなく、今年一楽しみにしていたと云っても過言ではない映画『窮鼠はチーズの夢を見る』についてです。
いつものごとく、ネタバレに全く配慮しない内容ですので、これから観たいという方は何卒ご注意ください。

原作漫画を読んでドはまりしたのはもう8年くらい前のことで、ブログでこんな記事もしたためておりました。

https://ameblo.jp/hourouotome/entry-11199307648.html?frm=theme

 


当時は、二人の主人公――大伴恭一と今ヶ瀬渉をよりリアルに感じたいと、人生で初めて、ドラマCDなるものまで購入したほどでした。
それがまさかの実写化、しかも主役二人が人気俳優、監督もメジャーな人とあって、期待するなという方が無理な前情報。まあ、6月公開予定がコロナ禍で延期になってからはしばし放念していましたが……。
SNSでネタバレしない程度に感想を見ていた限り、とにかく言及されていたのは「これがR-15でいいのか? R-18でもおかしくないのでは?」という点でした。つまり、がっつりやってますよということですね(身も蓋もなくてすみません)。
まあ、一腐女子としてそれを楽しみにしていないと云ったら嘘になりますし、メジャーな、しかもジャニーズの俳優がそこまでやってくれるの?という何やら有難みのようなものはありつつも、この作品の魅力はそこだけではないと思っているので、ほどほどの期待を持ちつつ、映画館へ。

映画は概ね原作の筋を追っており、話もキャラクターもそこまで改変はされていないのだけど、なんだか別の作品を観たような、不思議な感覚でした。
原作が好きすぎて失望したというわけでは決してなく、しかし原作を越えたという感じも無くて、この気持ちをどう表現したらいいのか、とても困っています(笑)。
原作は、やや説明的にも見えるほど饒舌だし、二人ともけっこう感情をむき出しにしてぶつかり合うので、恭一と今ヶ瀬の心情がよくわかるのですが、映画はそのあたりを敢えて省略して、行間を読ませているという印象を受けました。その分、原作を知らずに観た人はどう思うのだろう、これでわかるのかな?とも。
一緒に観に行った友人が『ブエノスアイレス』みたいだねと云っていて、確かに、あんな感じの気怠さと、起承転結的な展開のなさ、煮詰まったようなうだうだした人間関係は似ているかもしれません。『ブエノスアイレス』から色彩と体温を引いた感じとでも云えばいいでしょうか。

好意を寄せてくる相手と何となく関係を持ってしまう“流され侍”の恭一のクズさは、映画のほうが際立っていたと思います。
ドラマ「モンテ・クリスト伯」の南条幸男(原作ではフェルナン)役で印象に残っていた大倉忠義の、綺麗なんだけど何を考えているかわからないようなビジュアルは、上っ面だけよくて中身はけっこう酷い男という意味では満点のはまり方で、特に後半、かわいい後輩のたまきと結婚寸前まで行って別れを告げる場面は、原作以上にたまきが気の毒になりました。
原作の恭一は、もうちょっと可愛げがあるんですよ。クズというよりヘタレというか、でも時折ふっと見せる男のかっこよさや、本物の優しさがあって、今ヶ瀬もわたしもそういうところにときめいてしまう。原作で、「お上品にとり澄ましてるけど本当は体の奥底に欲望と情熱を隠し持っている」と今ヶ瀬が評する恭一像とは、ちょっと違ったかな?と。
今ヶ瀬には、線が細くて少しきつい眼もとの、クールな黒猫のようなイメージがあったので、最初にキャスティングを聞いたときは、犬っぽい顔の成田凌でよいのだろうかと思いましたが、背が高くて華奢な体つきや、爬虫類のようなねちっこさでだんだん今ヶ瀬に見えてきました。ぬめっとしていて常に不穏な雰囲気を漂わせているんだけど、時々それこそ従順な犬のようにかわいい。男でも女でもないような不思議な存在感がありました。
恭一を取り巻く女性たちのキャスティングはいい案配でしたね。原作で重要な役割を果たす、それぞれにキャラの立った女性たちなので(ただし、映画で恭一が関係を持つ取引先の女性は、原作では言葉でしか出てこず、原作で登場する、同窓会で再会して関係を持つ人妻と融合したのかなと)、脇と云えども外してほしくないなと思っていましたが、それは杞憂でした。
さとうほなみが演じる夏生、吉田志織が演じるたまきもはまっていましたが、なかでも恭一の元妻・知佳子を演じた咲妃みゆは宝塚時代、“北島マヤ”と称されていただけあって、こんなちょっとした出番でも絶妙に印象に残りました。知佳子が恭一に離婚を切り出すときのセリフ「(あたしが何か言うのを待ってる空気がもう)キモチワルイの」これをどう云うか、めっちゃ注目していました。原作よりもリアリティのあるキャラでしたね。

体感R-15以上と評判のあれやこれやのシーンは、なんというか、わりと即物的に感じました。音や動きは生々しいんですけど、その分、妙に冷静な気持ちになってしまったというか(笑)。二人とも綺麗な体で、脱ぎっぷりも素晴らしいし、嫌な感じは全然しなかったですが、萌えるかと云われるとどうだろう……? 萌えの観点なら、キスシーンのほうが度数は高かったかな。
でもこれ、自分が好きな俳優だったらまた感想が違ったかもしれません。これが例えば、あり得ないけど四×成とかだったら、鼻血噴いて倒れていたか、あまりに刺激が強すぎて目を覆っていたかのどちらかでしょう。。。

映画でここは入れて欲しかったなと思ったのは、2つ。
1つは、リバに関しての何かしらの伏線です。映画では、行為の際の立ち位置がさらっと変わっているのですけど、原作では、恭一が行為中に“本当は今ヶ瀬は俺に抱かれたいんじゃないのかな”と考えるモノローグが前置きとしてある。ここは、基本的にリバNGが多い腐女子じゃなくても重要なポイントだと思うのです。わたしはこのリバはあり寄りのあり、むしろこの物語のカギと云ってもいいくらいの要素なので、あれ、流されちゃった?と残念に思ってしまいました。
もう1つは、原作では2巻目の『俎上の鯉は二度跳ねる』のハイライト、別れを決めた二人が海へドライブに行くシーンで、今ヶ瀬が恭一を“人の好意を嗅ぎまわってそこに付け入る酷い男”だと罵りながらも、いかにいい男なのかということも噛んで含めるように聞かせる語りですね。まあ、映像でこれをやったら説明的すぎるかなとは思うけれど、映画ではこの“いい男”の部分が端折られていて、ますます恭一がクズ寄りのクズに見えてくるという(笑)。
だけど、このシーンの映像はとても美しかったし、今ヶ瀬が「心底惚れるって、その人が“例外”になるってことなんだけど、あんたにはわからないか」と云って、恭一が「いや、わかるよ」と答えるやり取りは、饒舌でないからこそ伝わる情感に溢れていたと思います(この“例外”のセリフ、原作にもあるけれど、この場面じゃないんですよね)。
また、原作とは違う余韻たっぷりのラストシーンは賛否あるみたいですが、この映画に終始漂う曖昧さを鑑みると、映画のラストはこれでよかったのではと思います。

ところで、この手の作品で必ず付きまとう“(同性愛ではなく)人間同士の愛の物語”といった言説は、例外なくこの映画でも云われているわけですが……。
ジェンダーのタブーや差別が、少なくとも表面的には激減した時代にあって、男も女も関係ないと“云う”のは簡単だし、人間同士の~と普遍的な方向に持って行きたくなる気持ちもわかるんですが、現実は、ゲイかノンケかに関わらず、自分の性癖を越えていくということは、そんなに容易ではないと思うのです。仮に自分が、女性を相手に考えてみても、社会的にどうとかいう以前に、性的に惹かれるということがあまり想像できないというか……。それはもう単に、肉体の性癖としか云いようがないし、越えられるかどうかは実際にやってみないとわかりません。
だから、どノンケの恭一が、ゲイの今ヶ瀬を精神的にだけでなく、肉体的(性的)にも受け入れるというのは、それなりの逡巡や躊躇いがあっても何ら不思議ではなくて、そこを無視したり、差別的と捉えたりするのは、なんか違うかなあ……と思います。

原作は折に触れ再読していますが、映画もいずれ再視聴して、初見では気づかなかった細かな部分にもう少し目を凝らしつつ、映像表現と漫画表現の違いを味わい比べたいですね。
しかし……もうこれを上回るほど楽しみなコンテンツがあるとしたら、in the skyの映画化か、おっさんずラブ3の発表か、『聖なる黒夜』の実写化くらいしか思いつきません。誰か、誰か実現してください。。。