前回の記事が、BL映画の感想だったことを思うと隔世の感がありますが……。
ご無沙汰しております。
「おっさんずラブ」にとち狂っていた日々が何億光年前かと思うくらい、世の中がたいへんなことになっていましたが、皆さまつつがなくお過ごしでしょうか?
こういう状況下において、自分の思想や態度をどこに置くべきかは、日々自問自答するばかりです。
今日は正しいと思っていることが、明日には変わる世の中で、簡単に何かを断定して、今日書いたことを明日さっそく訂正するというのも、面倒でいかがわしいし、バカは沈思黙考のフリでもしているほうがマシということは、9年前に重々身に沁みてわかったことです。
ツイッターなどを見ていると、錦の御旗がトピックごとに乱立し、自粛/反自粛、給付金は一律/必要なところのみへ、学校9月スタート/反対、バトンリレーに対する好悪……などなど、戦国時代さながらに対立・分断があちこちで起こっています。一言一句一挙手一投足に正解/不正解ボタンが用意されていて、うっかり早押しすると、有名人はもちろん、わたしのような一般人でも大怪我を負いかねません。
わたしは、現時点では、自粛はほどほどにと考えているし、学校(の1学期)9月スタートは山ほど問題があるのではと思うし、一律給付金はベーシックインカムの第一歩として有難く頂戴するし、バトンは苦手なうえそもそも回ってきませんが、いずれも正しいという確信があるわけではありません。まあ、どういう立場に立っても批判はあるし、何なら立場を表明しないことにも臆病だ卑怯だと批判が集まる世の中です。すべてのトピックをゆっくり勉強して吟味できるわけでもない身ゆえ、脊髄反射的に結論に飛びつかないようには気をつけたいものです。
とか云いつつ、よせばいいのにわざわざブログを更新するにあたって、この騒動が始まってから読んだ本について書くことにしました。本の著者を盾にして自分の身を守ろうという魂胆が見え隠れしますが、何卒ご容赦ください。

『ペスト』
アルベール・カミュ

この3月でしたか、ツイッターで見てびっくりしたのですが、とある書店では「おひとり様1冊まで」という制限があったとか……。
幸い、わが家には積読本として本棚に刺さっていましたので、これを機に読みました。それと前後して、お笑い芸人マザー・テラサワの読書会でもこの本が取り上げられることになり、それにも参加しました。
舞台は194×年、フランス植民地時代のアルジェリアにある、平凡な都市・オラン(架空の町)。そこにペストが突然忍び込み、じわじわと広がっていきます。当局の曖昧な態度、住民たちの躁鬱的な感情と行動、迷信やデマの蔓延、不条理な世界で自分の仕事を黙々と勇敢に行う人々など、まさにコロナ下の今をなぞったかのような描写は、人間の心情や行動は100年くらいでは大して変わらないもんだなと安心半分、失望半分の気持ちを抱かせます。
医師、小役人、旅人、新聞記者、神父など、さまざまな立場にある登場人物が、ペストに対して、どんな態度を取り、どんな行動を起こすかという点が、物語の核になっています。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」だと語り、そのとおりに行動する医師リウーや、よそ者(旅行者)でありながら有志の保険隊に加わり人々を助けるタルーは無論、魅力的であり、人間の美しい部分を象徴する登場人物ですが、読後、妙に思い出すのは、犯罪者のコタールです。
誰もがペストとその恐怖で委縮していくなか、この非常事態、大災厄のなかでは自分の悪事などは取るに足らなくなっていく。そのことでコタールは「俺のターン」とばかりに元気を得ます。ほかの登場人物が皆ペストを敵とするなかで、一人、まるで味方につけているかのようで、“正しい世界”が、万人にとって必ずしも生きやすいとは限らないということを、よく表している人物です。

世界を根底から揺るがすような出来事が起こらない限りは、強固な社会格差のルールから解き放たれることは難しい――かつて、ロスジェネ世代の論客・赤木智弘が書いた「希望は戦争」という言葉や、トランプゲームの「大富豪」における“革命”を思い出します。ウォルター・シャイデルは『暴力と不平等の人類史』で、“平等化の四騎士”として「戦争」「革命」「崩壊」「疫病」を挙げていますね(ここには「災害」も加えたいところですが)。
卑近な例で云えば、あれほど社会的にマイナスに思われていた「引きこもり」という行動が、急に推奨されるようになりました。わたしはいちおう社会人の端くれとして働いているものの、基本的に労働が苦手ですので、この災厄で“不要不急の”労働、つまり人生の債務が制限されていることに、どこか安心してもいるのです。無論、まだ失業しておらず生活できているから云える寝言ですが、本音としては、そんなに働かなくても誰もがそれなりに生きていける、生存と労働を分離できる社会になっていくのが理想です。
今回の疫病でも、せめてこの被害の代替に、何かよい種子が撒かれ、世の中の変なシステムや価値観が是正されないものでしょうか。例えば、一気に推進されたテレワークが今後も当たり前のこととなり、テレワークでもオフィスワークでもどちらでも好きな方を選べるようになって、満員電車の地獄から解放されたり、労働時間の短縮化が進んだりするのなら、一律10万円の給付金を機に、ベーシックインカムが始まって、“働かざる者、生きるべからず”という世の中が変わることに期待したくもなるというものです。

『改訂版 全共闘以後』
外山恒一

都知事選出馬でおなじみの活動家、外山恒一になぜか今更興味をもったのは、彼がツイッターで、「不要不急の外出闘争」を呼び掛けていたことでした。
5月の今でこそ、“自粛警察”という言葉がすっかり定着し(なんなら“自粛ポリス”というあまり変わらない派生語まで飛び出し)、反自粛派も増えつつありますが、緊急事態宣言の前後は、まだまだ自粛派が多かったように思います。
そんななか、「補償しなくても自粛してくれるFラン人民なんぞナメられて当然である。(中略)「頼むから、カネを出すから家でじっとしててくれ」と奴らが懇願し始めるまで街に繰り出し続けるべきなのだ」と呟いていたのが外山恒一です。
“自粛”を“要請”という強制力のなさでも、唯々諾々と従い、なんの抵抗もしない人間でよいのか?という懸念は最もです。このころ、和牛券や魚券ですったもんだしたり、ハードルの高い給付金を掲げたりしていたのが、なんとか一律10万円給付に着地したのも、こうした不屈の(?)闘争精神がなければ引き出せなかった結論という気がしてきます。
一方で、新宿や渋谷といった繁華街以外、わたしの暮らす生活圏では、平日週末に関わらずそれなりに人の出もあり、意外とそんなに自粛もしていないので、これもひとつの抗議運動か……と、微笑ましくさえ感じたのでした。

そんな彼に興味をもち、最新刊のこの本を読むことにしたのです。
kindleで読んだのですが、紙の本ではなんと621ページ!そりゃなかなか読み終わらないはずだ(笑)。
タイトルのとおり、1968年全共闘以降の社会・学生運動の通史です。1972年の連合赤軍事件を決定打として、政治的なものと文化・思想が分離してしまい、途絶えたと思われている若者たちの政治運動が、実は現在まで脈々と続いているという分析に基づいた一大運動史です。
坂本龍一、糸井重里、保坂展人、辻元清美、鈴木邦男、吉本隆明、柄谷行人、赤瀬川原平、尾崎豊、ブルーハーツ、忌野清志郎、小林よしのり……など誰でも知っている有名人から、太田リョウ、山本夜羽、見津毅、佐藤悟志、鹿島捨市、中川文人、劇団どくんごなど初めて知る運動家や文化人、アングラテント芝居まで、百花繚乱の傑物が入れ代わり立ち代わり登場し、左右思想とカルチャーが縦横無尽に入り混じり、オウム真理教や3.11以前の反原発運動なども飲み込みながら「運動史」という1本の線の上で展開していくさまは、壮大な歴史大河ロマンそのもの。全員の生年と出自も律儀に書かれています。登場人物は、思想の違いはあれど、ほぼ皆が「公権力と対峙する」スタンスからスタートしているので、活動家版水滸伝とも云えそうです。
「だめ連」あたりからはわたしにも一読者としてなじみのある名前が登場し、「素人の乱」の松本哉、「エノアール」の小川てつオ(上京したてのころ何度かお目にかかりました。今も元気でお過ごしでしょうか)なども、運動史で見ると、なるほどこういう思想を背景にこのアクションに結びつくんだなと、さまざまな発見がありました。「どうも単なる面白サブカル青年であるように見える松本ら素人の乱」という表現には笑ってしまいましたが、松本哉については詳細な記述があり、その華麗なる活動歴を見ると、とても“面白サブカル青年”というくくりで語ってはいけない人物だなと思いました。著者も「金友(隆幸)はシンプルなアイデア1つで最大の反応や具体的成果さえもたらす実践をいくつもおこなっており、これに匹敵する“才能”は左派にはせいぜい、だいぶ年上の松本哉のみだろうし」と書いていて、わりと好意的に評価しているように見えます。
好意的と云えば、SNSでたびたび“日和見おじさん”などと揶揄される糸井重里のことも、(坂本龍一とともに)全共闘出身者として紹介し、のちに糸井が“資本主義の手先”ともいうべき企業コピーを生業にすることについても、「自己表現としての言葉はやがて必然的に“何らかの大義”を招き寄せてしまう。糸井が選択したのは、“自己表現”になどなりえない“表現”としての広告コピーだったのではないか。(中略)コピーライターの作品は“何らかの大義”をいずれ招き寄せるに違いない“自己表現”であることを必ず免れることができる」とポジティブに書き、むしろ糸井重里は日和見どころか、最初から一貫した思想の持ち主であるという見方をしていて、興味深いです。
また、栗原康経由で知って、近著の『夢見る名古屋』がとても面白かった矢部史郎は、外山恒一とは浅からぬ因縁があって、これまた「へえ~!」の連続でした。なかなか辛辣に批判してもいますが、著者の言葉で“ドブネズミ世代”を生きた同志としての友情もあるのかなと感じました。

そんな運動史の中で、もちろん外山恒一本人も当事者としてたびたび登場します。さまざまな運動と関わり合いながら、最終的にムッソリーニに傾倒し、「歴史上、国家権力と既成左翼とを同時に敵として闘い、勝利した運動が一つだけあるではないか」という結論に達し、ファシストを名乗るようになります。ファシズムの是非については留保しますが、アナキズムの行き着くひとつの答えだという見方は興味深いです。

なお、ここに挙げた名前はごくごく一部で、興味深い登場人物はまだまだ……付録で一覧できる年表が欲しい…!

『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室』(基礎知識編)
『全国民が読んだら世界が変わる 奇跡の経済教室』(戦略編)

中野剛志

以前、『最強のベーシックインカム』という本を紹介したことがありますが、その著者であり、ツイッターでもベーシックインカム(BI)の必要性をわかりやすく説いている「のらねこま」さん(本の著者名は駒田朗)が名前を挙げていたので、読んでみることにしました。
……ら、まさに目からウロコが落ちて世界が変わる、とてもためになる本でした。MMT(現代貨幣理論)を基本とする、多くのツイッターBI論客による啓蒙の下地があってこその感銘ではありますが、要約しますと、

・平成日本でデフレが続いていた(今も続いている)のは、デフレなのにインフレ対策ばかりしていたから
・インフレとは、金<物、デフレとは、物>金の状態である
・国家財政を、家計や企業経営に置き換えて考えてはいけない(合成の誤謬)
・貨幣とは物々交換の延長にあるものではなく、負債の一形式である(信用貨幣論)
・銀行は人々から集めた預金を貸し出しているのではなく、貸し出しが預金を創造する(信用創造)
・通貨の価値とは、納税手段としての価値である(現代貨幣理論)
・税金は財源ではなく、物価調整の手段である
・国の財政赤字を減らすと、国民の金が減る
・自国通貨建ての国債は、返済不能に陥ることはありえない(例えばギリシャで財政破綻が起きたのは自国通貨ではなかったから)

……といったところでしょうか。
しかし、これらのことは、わたしのような経済音痴には、なかなか体得しづらいものです。「国の借金が600兆円!次の世代に背負わせてはいけない!」といった論説が長らく流布し、まるで親の借金を背負わされた子どものように憤りと恐れをもって信じてしまう世の中では、“天動説を信じていた頭を、地動説に切り替える”くらいの気持ちでないと、納得はできないでしょう。

でも、これらの説を聞くと、株価は上がっても給料は大して増えもせず、景気がいいという実感が全くなくて何でだろう?とモヤモヤする気持ちに、少なからず光明が差してきます。

続編の「戦略編」では、さらに政治や世界情勢の話へ踏み込んでいきます。
1968年以降、左派の関心が、経済社会の階級闘争ではなく、女性、少数民族、LGBTなどのマイノリティの解放に向かい、アイデンティティを巡る闘争に変貌したという記述や、現代は右と左(保守とリベラル)での対立だけではなく、経済を巡ってもう1つ、グローバル/反グローバルの基軸によって新たなマトリクスが形成されているという分析など、腑に落ちることが多すぎて、本に付箋を貼りまくってしまいました。
多くの社会問題が貧困に起因していると感じますが、さらに源流を辿れば経済の問題に行き着くでしょう。今、“コロナか経済か”という対立軸で語られることも多い経済というトピックを、今こそ、ベーシックインカムも含めてそのシステムを真剣に学び、吟味する時なのではないでしょうか。

長くなりましたので、②として次回に続きます。