なんか……3カ月連続で更新記事があったことって、何年ぶりなんだろう?!
萌えのエネルギーって凄いよね!電気作れるレベルだよね!!

友達からはさらに『ダブルミンツ』や『どうしても触れたくない』を薦められたのですが、ここで敢えてわたしが次に手を出した、というより再視聴したのが『太陽と月に背いて』でした。
厳密に云えばBLじゃないんですけど、昭和の腐女子であるわたしにとって、BL実写よりはるか前から存在している同性愛を描いた映画は、かっこうの萌え対象、いやむしろ本家と云っていい。私的金字塔にして殿堂入りは『モーリス』に決まっているとして、その次くらいに好きなのがこの作品。『Total Ecripce(皆既日食)』っていう原題も凄まじくそそります。
まずはAmazonをチェックしたらすでにDVDは廃盤で、中古価格がとんでもない高額になっており、あれ、わたしもしかしてDVD持ってたんじゃないのか?と都合よく思い出してみたんだけど、実家にも今の家にも存在していませんでした。しかも、TSUTAYAにもVHSしかないんだよ! ビデオデッキを捨てずに取っておいて本当によかったです。わたしが好きでもう1回観たい映画やドラマって、どういうわけか絶版になっていることが多いんですよ……『ロックよ、静かに流れよ』とか『司祭』とか『深く潜れ』とか……。

何ゆえこのタイミングで見返そうと思ったかと云うと、この映画の主人公である二人の詩人、ポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボーの関係性を、四宮と成瀬につい重ねてしまったからなんですが(結局それかよ!)、再視聴してみると、ちょっと残念なおっさんの年上が生意気な美男子年下に心乱される、という設定以外は、そんなに似てはいませんね。特にヴェルレーヌは、ちょっとどころかあまりにも残念なやつなので、四宮と一緒にしたら怒られそうです。
ランボーは、見目麗しく詩作の天才、だけど性格は我儘で態度は粗暴という、BL的にはもちろんのこと、そうでなくてもたいへん魅力的なキャラクターです。それを、ビジュアル最高潮のレオナルド・ディカプリオが演じています。遥か昔の自ホームページにも書き散らかしましたが、若かりしころの彼の魅力はこの映画に極まっていると云っても過言ではなく、少年と青年の狭間にある独特の美しさと妖艶さ、傲慢と無垢が同居する天才詩人の危うさを、その美貌と演技で見事に体現しています。ほんと、ランボーが乗り移ったのかと思うくらいに説得力があります。ヴェルレーヌを不遜な態度で罵ったかと思えば、自分を置き去りにするヴェルレーヌに子どものように泣いてすがったり、表情がくるくる変わってかわいい。んもう!この小悪魔!(いや、悪魔か?)
対するヴェルレーヌ役のデヴィッド・シューリスは、正面からがっつり剥げていておっさん感というかねちっこい中年感が強く、上映当時から否定的な声が多かった記憶がありますが、肖像画を見る限り剥げ散らかしているのは事実ですし、オランウータンのような醜男って云われていたらしいですから……。それから考えれば、シューリスは背が高くて指も綺麗、帽子を被ればなかなかの紳士ぶりで、むしろ底上げされているとも云えますし、ヴェルレーヌの弱さや女々しさが、その情けないビジュアルも含めてよく表れていたと思います。
ちなみに、実際の年齢は、出会った当時ヴェルレーヌ27歳、ランボー16歳で、この年の差は四宮&成瀬とほぼ同じだわね!と、ちょっとテンション上がります。27歳だったら、まだまだ若い美青年として描かれていてもおかしくないけれど、それだと史実から乖離してしまうからなあ……。
もともとは、ランボー=リバー・フェニックス、ヴェルレーヌ=ジョン・マルコビッチがキャスティングされていたらしいですね。それだとまた印象が違ったでしょうか。顔の好みは、ディカプリオよりも断然リバー・フェニックス派なんですけど、もはやわたしの脳内では、ランボーと云ったらディカプリオでしか再生不可ですから!

キャストの話はこの辺で置いておいて、再視聴して思ったのは、これは男同士でしかあり得ない愛憎劇だなということでした。またしつこく参照しますが、サンキュータツオ氏の著書で、BLは「男は丈夫だから安心」「鈍器と鈍器みたいなもんだからぶつけ合える」という大前提があるからこそ成立する世界だという話があって、それをすごく納得できたんです。
ヴェルレーヌとランボーは、小学生のがきんちょみたいにはしゃぎ合ったかと思えば、酷い言葉で罵り合い容赦無く殴り合います。アル中でDV気質のあるヴェルレーヌが妻に振るう暴力はいたたまれないんだけど、ランボーに拳銃をぶっ放すシーンはなぜか酷いと思わない。腐女子バイアスと云ってしまえばそれまでですが、男同士だからこそ、肉体的にも精神的にもあんなに傷つけ合うことができるんじゃないのかなって。そこが男女の恋愛との大きな違いで、我々のような腐った人間が熱狂する所以であると思います。
さらに二人の関係性を紐解くと、肉体的な攻受ではランボー攻、ヴェルレーヌ受なんですね。これがビジュアル的に受け付けない腐女子の方々も多いみたいですが、妻の元にたびたび戻ってしまうヴェルレーヌに嫉妬交じりのムカつきを隠せなかったり、初めて海を見て満面の笑みでヴェルレーヌに抱きついたりするランボーには、受けっぽいかわいさもあって、わたしの中ではリバ可、ということで勝手に解釈しています。

二人はフランスを出てロンドン、ブリュッセルと放浪しながら爛れた生活を送りますが、まあこんな関係が長く続くわけもなく、痴話喧嘩の末にヴェルレーヌがランボーの手を拳銃で撃ち抜いた「ブリュッセル事件」によって、2年で終止符が打たれます。ヴェルレーヌは監獄送りになり、ランボーは実家のあるロッシュ村に帰郷。ヴェルレーヌが出所してから一度だけ再会しますが、すでにランボーは詩作をやめており、その後はご存知のように、アフリカで商人として後半生を過ごし、二度と詩を書くことはありませんでした。
道徳的にはどうしようもない二人の、脆くて儚い関係。しかし、その作品と伝説は永遠の命をもって歴史の記憶に刻まれています。当時、彼らを非難し、軽蔑したであろう人々の生きた証明よりも、遥かに鮮烈に。何しろ、2016年のオークションで、例のピストルが約5300万円で落札されたっていうんだから!ゴッホじゃないけど、極貧放浪生活を送っていた二人がこれを聞いたらどう思うだろう……。
映画のラストで、ランボーの妹に兄の作品を渡してほしいと依頼されたヴェルレーヌが、彼女が去った後にその名刺を破り捨て、アブサンを2杯注文してランボーの幻影を見るシーンは、何度見ても切なくて胸を打たれます。「私たちは幸福だった。忘れない」と呟くヴェルレーヌ。そして、ランボーの最も有名な詩の一節「見つけたよ。何を? 永遠を。太陽を溶かしこんだ海だ」が、アフリカの乾いた大地と海の映像とともに流れます。二人にしかわからない理解と共犯関係、愚かで輝かしい青春を、ぎゅっと永遠に閉じ込めたような素晴らしい終わり方でした。

青春と云えば、ランボーの存在や生き方そのものが青春の権化のようですよね。だからこそ、未だに詩の世界のカリスマであり続け、後世の人々の好奇心を掻き立てる。後年、アフリカで書かれた家族への手紙に普通の結婚への憧れを綴っているのを読むとちょっぴり寂しくもなりますが、希求する魂の躍動こそが青春だとすると、ランボーの生涯はずっと青春だったようにも見えます。アフリカの地で過酷なビジネスに勤しんでいたとしても、それは、ペンで詩を綴るのではなく、体で詩を生きる行為だったのではないでしょうか。
わたしは詩を書きませんが、詩と旅は似ていると思います。情報の多い2000年代に旅したわたしにとってさえ、イエメンやエチオピアは遥かに遠い土地でした。ランボーが生きたころはもっと未知で苛烈な世界だったはずですが、それでも行かずにはいられなかった。その衝動や無謀は、詩のロマンにも似ています。だけど、実際にかの地に行って住んでみたら、超タイクツな場所ですとか手紙でこぼしているのが、ランボーらしいというか、旅人あるあるというか(笑)。
反対に、ヴェルレーヌのろくでなしぶりに共感できるのは、多分、青春が終わってからなんでしょう。このどうしようもない弱さ、流されやすさはなかなか擁護しがたいのですが、そんな性質こそが、美しく物憂げな詩を書かせるのだとすれば、人間、何が幸いするかわかりません。映画では描かれていませんでしたが、ヴェルレーヌはランボーと永遠に別れる前、彼から詩稿を託され、それを世に送り出すために献身したといいます。詩集『イリュミナシオン』として結実したそれは、ヴェルレーヌの未練と執念の賜物にほかならず、それだけでもう白飯を3杯はお代わりできるほど萌えられるというものです。
余談ながら、当時も今回も、ヴェルレーヌ夫人役のロマーヌ・ボーランジェの恐ろしく豊満な肉体には大いに驚いたものでした。ヴェルレーヌも「妻の心よりも体が好き」などと最低発言していただけのことはあります。

 

※DVD再販、再上映などを希望する署名があるので、リンク貼らせていただきます。ご興味あるかたはご覧ください!

http://chng.it/QMbKSyYMMm


『太陽と月に背いて』の話がずいぶん長くなってしまいましたが……。
最近ちょっといいなと思っている実写ものが、テレビ東京のサスペンスドラマ『僕はどこから』です。
原作漫画がありますが、わたしは未読です。今はドラマが楽しみなので、読むのは放映終了後に取っておきます。
まったくBLではない、健全バディもの(匂い系?ブロマンス?)で、第4回までは視聴済みの録画は消しているくらいの思い入れでしたが(HDDが常にギリギリなのです)、最新の第5回でいきなり気持ちが高度1万メートルまで上がってしまいました。
優しくておとなしい作家志望の薫と、若きヤクザの組長・智美は、高校時代の同級生です。二人してユニセックスな名前もツボすぎるんですが、どこからどう見ても白と黒、正反対のキャラクターなのに、「読書会」という最高にエモーショナルな交流と、智美の妹の危機を薫が救った過去によって、普通の友人以上の絆がある二人。
薫は、人の書いた文章を書き写すとその思考をまるごと読み取れるという特殊能力を持っていて、それがストーリーのキモになっています。
第5回では、ある事件で窮地に立たされた二人が、あわや友を売ってしまうのか?!という筋書きからの、一気に彼らの強い結びつきが際立ってくる展開には鳥肌が立ちました。もともと、自らのBL嗜好の根本を考えるに、どっちかというとこういう、恋愛でもなく、友情と呼ぶには強すぎる、「絆」としか表せない関係性が大・大好物なんですよね!
この二人の関係って、みんな大好き『BANANA FISH』のアッシュと英二にも似ているなと思いました。つまり、アッシュにとっての英二が良心や純粋さの象徴で、英二にとってのアッシュが強くてかっこいい憧れの存在……というのが、まさにアッシュ=智美、英二=薫で当てはめられる気がします。
薫役の中島裕翔と、智美役の間宮祥太朗のビジュアルの組み合わせもいい。特に、間宮祥太朗ってこんなに美形だったっけ?と、画面でアップになるたび惚れ惚れします。映画『翔んで埼玉』で、通行手形無しで東京に入り込んで呆気なく逮捕されたモブ青年と同じ人とは、とても思えません。
今夜放送の第6回も、予告を見る限り、腐的胸キュン展開がありそうで楽しみです!