たいへんご無沙汰しております。
仕事の業務で文章を書く量が多く、なかなかこちらまで手が回らず、気がつけば8月です……って、暑中見舞いも終わるって!
怠け心に鞭打って久々に更新したのは、読了したばかりの『戒厳令の夜』のことを書きたかったから。
五木寛之というと、昨今ではすっかり『大河の一滴』に代表される人生指南本の人というイメージに、わたしの中ではなっていますが、過去にはこんなスケールの大きな小説を書いていたのですね。
わたしは昔、それこそ中学だか高校のころ、深夜に再放送していた同名映画をたまたま視聴したことがあります。おそらく途中から見て、ほとんど内容は覚えていなかったものの、ラストがかなり鬱的な意味で衝撃だったという記憶だけは、いまに至るまで強固に持っています。
それで、ずいぶん前から、気になる本リストにこの本が入っていたのですが、すでに久しく絶版。Amazonの中古品もそんなに高くないとはいえ、またいつかと後回しになっていたところ、便利な電子版が出ているではありませんか!

朧げに、スペイン内戦の話だったかな……と記憶していたのですが、スペイン内戦をベースにしつつも、主題は、1973年9月11日に起きたチリ・クーデターでした。初版単行本は、1976年に上梓されています。
わたしは最近、宝塚版の「チェ・ゲバラ」を観劇したこともあり(あの夢々しい世界でキューバ革命を取り上げるとは!)、頭が中南米寄りになっていたので、読む心構えは万端でした。
「その年、四人のパブロが死んだ」というたいへん印象的な一文から始まる物語。
画家パブロ・ピカソ、詩人パブロ・ネルーダ、音楽家パブロ・カザルスという実在の人物に加え、4人目のパブロこと、パブロ・ロペスは小説の創作で、幻の画家という位置づけです。“その年”とは、ピカソ、ネルーダ、カザルスが亡くなった1937年を指します。
主人公は、映画宣伝会社に勤務する30代後半の江間隆之。出張先の博多で、強烈な既視感に襲われて入ったバー「ベラ」で、パブロ・ロペスの絵が掛かっているのを発見します。ナチス・ドイツの収奪と第二次世界大戦のどさくさに紛れ、すでにこの世から消滅したとされていたロペスのコレクション。それが何故、福岡のバーに……?
という、いかにもそそるプロローグから、怒涛の展開(←便利w)に突入し、舞台は九州から、ロペス・コレクションの正式な所有者とされる女性の出身国、チリへと軸足を移していきます。折しもチリは、クーデター前夜。原田マハの人気ぶりを説明するまでもなく、“名画を巡るサスペンス”は鉄板ネタですね。
そこに絡んでくるのが、日本の歴史上、異端の民とされてきた、非定住・非農耕・非入籍を掟とするサンカ(文中ではシャンカ)や海の民(海人族)だったりして、新宿の素敵書店「模索舎」的ロマン溢れる民俗学の豆知識も満載。
全部のせの丼のようなお腹いっぱい感、いろいろ出来すぎな展開は気になりますが、昨今、このような世界を股にかけて展開する一大ロマン小説を久しく読んでいなかったので(最近の小説というと、だいたいが小さな日常に留まっている気がするのです)、やっぱりこういうダイナミックなフィクションを読むと、小説の力、小説にしかできない“壮大な語り(騙り)”の芸術の、無限の可能性を体感します。

中南米やアフリカに、真の独立と平和をもたらそうとした指導者たちは、キューバのフィデル・カストロを除いて、無残な結末を迎えていることが多いです。みんな大好きチェ・ゲバラしかり、ブルキナ・ファソのトマ・サンカラしかり、コンゴのパトリス・ルムンバしかり……。
世界で初めて、自由選挙による社会主義政権を打ち立てたサルバドール・アジェンデも例外ではありません。チリ・クーデターで、ピノチェト将軍が指揮する軍に包囲され、自殺したとされています(殺された説もあるようです)。
小説では、さまざまな登場人物の口を借りて、アジェンデのやり方を褒めたり貶したりしていますが、概ね、作者の気持ちはアジェンデ側にあると思いました。
物語の最後のほうで、アジェンデ本人が登場する場面があります(こういうことができるのが、小説ならではのウルトラCだよね)。そこに描かれているのは、困難な道を高潔な精神で切り開こうとする、一人の英雄の姿でした。
わたしは、文人・哲人の政治家というものに、やや肩入れが過ぎるのかもしれません。アジェンデは、マレーシアの現首相マハティール同様に医者の出身で、チェコの初代大統領トマーシュ・ガリッグ・マサリクは社会学者であり哲学者。
わたし自身はどこにでもいる心の狭い馬鹿ですが、国や大きなものを背負って立つ英雄やリーダーには、強く賢く、そして優しくあってほしいと勝手な願いを抱いているのです。

それにしても、もしわたしが旅に出る前にこの小説を読んでいたら、また巡る場所も変わっていたのになあ……と今さらながら後悔。
あの頃、チリ人でわたしが唯一知っていたのは、日本の公務員の横領事件で有名になったアニータさんくらいだったから! アニータさん経営のレストラン見学に行っている場合ではなかった……。
せめて、アジェンデ大統領の最後の演説の書き起こしくらいは読んで行きたかったよね!
わたしにとってのチリは、アルゼンチン、ブラジルと並んで文明開化が進んでおり、移動はすこぶる快適、食事は安くておいしい海の幸とワイン……と、いかにも能天気な旅の内容で、歴史に思いを馳せることもありませんでした。
2010年には、「人権と記憶の博物館」なるミュージアムが設立されたそうで、こういうものが当時あれば、もう少し早く歴史を学ぶきっかけになったかもしれません。
まあでも……大多数の国の政治事情は、旅をした後になってやっとわかることも多いですね。旅をしたからその国のことを少しは身近に感じられ、知ろうという欲も出て来やすいので、やっぱり人生で2回くらいは長期の‟グレート・ジャーニー”に出たほうがいいかもしれません(笑)。

小説の巻末には、チリ・クーデターやアジェンデ、絵画やファシズム、サンカなどにまつわる参考図書がずらりと列挙されています。しかし、ほとんどがもう絶版ですね……。『ヒトラー強盗美術館』なんて、興味津々な本もあるんですけどね!
いま、アジェンデの伝記を読みたいと思っても、それらしい本が見当たりませんし、映画『戒厳令の夜』もDVDソフト化されていませんし……嗚呼、わたしの好奇心はどこにぶつければいい!?
ネルーダの詩を読むか、カザルスの演奏を聞くか、それがせめてもの手当でしょうかね……。