わたしのなかで、第何次だかすでにわからないほどの源義経ブームが起こっています。
それというのも、夜更けの書店で偶然見かけた、町田康『ギケイキ』(義経記)。町田康×源義経という組み合わせに興をそそられ、軽い気持ちで手にしたらこれが面白いのなんのって!
先日、某作者さんと久しぶりに会いまして、その際、某作者さんが「ホラーやSF以外の小説をあんまり面白いと思ったことがない」とのたまうので、いやそんなことはない、小説にはノンフィクションには到達できない境地があるなどともっともらしく反論したものの、近年は、昨年一時的にはまった西村賢太と、ドラマの影響で読んだ『モンテ・クリスト伯』以外、ほとんど小説を嗜んでいなかったため、至極説得力に欠けていました。
しかし、この『ギケイキ』は、久しぶりに小説を読んで楽しい、ページをめくる手が止まらないという興奮に満ちていました。もちろん、わたしが源義経好きだからという要素(まさに判官贔屓)を差し引く必要はありますが、半面、すでに知っているストーリー(義経の一生)をこれほど新鮮に読ませてくれるというのは、やっぱり小説の持つ力なんだろうと感服しています。

古典の現代語訳とか、歴史小説だと思って読むともうむちゃくちゃです。無論、いい意味で。
ナルシストでやたらファッションにこだわる義経、不細工でメンヘラの弁慶、顔がばかでかい頼朝、なに言ってるかさっぱりわからない義仲…などという、ほとんどマンガかコントのようなキャラ設定からして脱帽ものですが(しかしメンヘラはともかく、ほかは伝承とそんなに乖離していないはず)、言葉遣いもバリバリの現代語、ヤンキーやらオカマやらコテコテの南部大阪弁やら乱れ交ってたいへんなことになっていて、斬り合いになれば腸ははみ出し脱糞し、なにかといったら菊門をつけ狙い、すぐに「殺します」とか云っちゃうんですけど、案外、この野蛮さ、チャラさ、柄の悪さって中世当時のリアルだったりするのかも、と思える妙な説得力があります。
そして、途中で絶妙にぶっ込んでくる現代の話題や風俗の破壊力。というのは、義経が現代によみがえって当時のことを回顧するスタイルを取っているからそんなことが可能なのですが、兄の朝長の死地に造った卒塔婆をジョン・レノンが来訪したことで有名な銀座の喫茶店に喩えてみたり、歩きづめの行軍で膝が痛くて「皇潤を飲みたい」という兵士がいたりするのが、史実以上に頭に残ります(笑)。なんたって、冒頭からしてハルク判官、ですからね!

会話のあほらしさも絶品です。たとえば、義経に平氏打倒の協力を仰がれた陵介重頼と従者のこんなやり取り。
「ああ、どうしようどうしようどうしよう」
「どうしたのですか」
「むっさやばい、むっさやばい」

突然、義経に頼って来られてみっともなく狼狽する重頼に対し、冷静な従者が答えます。
「だから、平家を滅ぼす手伝いはできない、ってはっきりそう言えばいいじゃないですか」
「あ、そうか。でも、そんなこと言ったら気を悪くされないだろうか」
(中略)
「だからあ、清盛に命を助けられたのに、その清盛の命を狙うなんていうのは、スピルチュアル的に考えても非常によろしくない、とかなんとか言えば、あー、はい。ってなりますよ」

…と終始ふざけているようにしか見えませんが、この重頼という男の小心さがよーくわかって妙にリアルなんですよね。
歌舞伎にもなっている「堀川夜討」もずいぶんとページを割いていますが、貴船に逃げ追い詰められた、日本一の駿足ランナー(こういう喩えがいちいち可笑しい)土佐坊正尊のぐちゃぐちゃに混乱したモノローグは圧巻です。

『へうげもの』を読んで打ちのめされた時にも思ったけれど、歴史ものの面白さは、結局は揺るがない史実に、どこまで大胆なフィクションを織り交ぜられるかにかかっています。
そのフィクションというのはキャラ設定も含めて、有りえないんだけど有りえるかも、意外とこの説アリかも、リアルかもと思わせる魔術的な手腕と理屈を超える熱量が必要で、中途半端にこちょこちょと現代の感覚が混じっているのが、いちばん失敗だと思うのです。
だから、あまり大きな声では云えませんが、「真田○」はダメだったなあ…。秀吉の右腕みたいになっていたり、淀殿にちょっかいかけられたり、まあ普通に考えて有りえないんだけど、そこの説得力がほとんど感じられず、すべてがご都合主義に終始しているとしか思えず、幸村を信繁と表記したくらいでは到底補えない史実(と一般的にされている事)との乖離が、いちいち気に障ってしまったのでした。
わたしは大坂編の初期あたりで嫌気が差し、夫が視聴する横で薄目を開けて見たり見なかったりしていましたが、大坂五人衆の一人、毛利勝永が岡本健一くんという個人的においしすぎる情報を聞くに及んで、再びテレビの前に座ってみたところ…なんですか、あの小物感漂うチンピラは。。。明石全登なんか、ひたすら祈ってるだけのモブキャラじゃないですか!
まあ、ふた言でまとめるなら、「リアリティがなく」「誰もかっこよくなかった」というガッカリ感ですかね…。「真田○」がダメで、『ギケイキ』がOKという感覚を、うまく説明できないのがもどかしいのですが、決定的な違いはここなんだと思う。後者のキャラはむちゃくちゃアホだけど、時たまもんのすごくかっこよくなるというか、凄みを見せるのがいい。五条大橋での出会いの後、義経と弁慶が一緒に経を読み上げるシーンなんて、若干菊門的な意味でも鳥肌が立ちましたよ。

その昔、なぜかコルカタの安宿で、町田康の初期作品『くっすん大黒』だか『夫婦茶碗』だかを読み、その炸裂する文体に衝撃を受けた記憶があります。その証拠に、当時の個人的な日記が、一時的に町田文体の真似事みたいになっています(笑)。
しかしその後は、そんなに熱心に追いかけることもなく今に至っていたのですが、ここで再び出会おうとは。それも、日本史上屈指のアイドル・源義経とともに。これを機に、名作といわれる『告白』あたりに手を出してみようかしら。
源義経で創作するのではなく、あくまでも枠組み・骨子は『義経記』であるという基本姿勢もいいのかもしれません。人として生まれたからには、やっぱり源平合戦で大活躍するかっこいい義経を見たいじゃんと思いますが、なんと原作の『義経記』でもばっさり端折られているんだって。小説内では、義経自ら「(そういうのは)平家物語とか読めばよい。大河ドラマとかにもなっているし」と一蹴しています(笑)。それでも、良くも悪くも自由でスーパースターな義経像はいささかも損なわれていない。古典の範囲で創作するというバランス感が、ちょうどいいのだと思います。

今書いていてふと思ったのですが、町田康と栗原康が同じ下の名前の持ち主というのも、「康、侮りがたし」という何やら奇妙な感想を抱かせます(ついでに、北村一輝の本名も康)。
栗原さんも一遍の評伝を書いているし、こういう憑依型でかつパンクでアナーキーな文体と歴史ものって、相性がいいのかもなあと思います。ひょっとしてこれが歴史小説の新境地? 


余談ですが、『ギケイキ2』のサブタイトル「奈落への飛翔」ってのもいいよね。すべてを諦めきったようなアナーキーな天才・義経のあっけらかんと悲しい感じが凝縮されている感じ。
2021年完結、全4巻予定らしいけど、それまでわたしが生きられますように!