労働への忌避感から、数年前、わたしはその名も『はたらかないで、たらふく食べたい』という本を手にしたのですが、この夏は、作者の栗原康さんの勢いが凄いことになっていました。
なんたって、この夏だけで、アンソロジーや共著も含めてですが4冊もの本をリリース! 時代が彼を求めているのでしょう(たぶん)。
カウンターカルチャーの側からものを云う人はたくさんいると思いますが、彼はもう、突き抜けすぎて次元が違います。もちろん、アナキズムというある意味極の極みたいな思想を扱っているということもありましょうが、この世を覆っている建前の欺瞞を、これでもかとベリベリ剥がしていく、暴走ブルドーザーのような破壊力と疾走感は、単なる共感や納得を通り越して、宗教的恍惚すら感じてちょっと危ないです。

前作の一遍の評伝『死してなお踊れ』はこれまでの著作に比べて、個人的には若干間延びしたかな?という印象があったのですが、今回の『菊とギロチン』『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』は、凄い爆発力で、キレもグルーヴ感も抜群。文章を読んで、上手いなと思うことはあっても、気持ちいいという感覚は、なかなか味わえるものではありません。この気持ちよさは、音楽の、というかリフのそれなんでしょうかね。一遍の評伝は、リフがちょっとくどかったのかも(笑)。
『菊とギロチン』は、こんなにも栗原節全開でありながら、じつは映画のノベライズ。ノベライズはどうしても原作の添え物というイメージがありますが、本作は、こんなに面白くていいのか?と逆に心配になるほどです。でも、その後、映画館に足を運ぶのは年1回程度のわたしがわざわざ映画を観に行ったくらいですから、この本の宣伝効果は絶大でした。
映画は、中浜哲=東出昌大という配役がまずよかった。本から入ったわたしは、一切のキャスティングを知りませんでしたが、これは思わず膝を打ちました。お上品だけど素朴さもある彼に、心優しきゴロツキはぴったりでした。村木源次郎に井浦新という配役もいいし、他の俳優さんのことはあまりよく知らなかったのですが、誰にも違和感がなく、和田久太郎なんて本人そっくりだし!
本当はこのMe Tooなご時世、女性側に立って、もうひとつの主人公である女相撲に共感すべきなのかもしれませんが、わたしは、ギロチン社のでたらめさに、なんとも云えないシンパシーを感じます。
女相撲の女の子たちは、じつは誰もだめじゃない。当時の世間では異端だったかもしれないけれど、誰も間違っていない。一方のギロチン社は、正義を掲げながらも女郎屋通いがやめられないし、せっかく掠奪した金をあっさり浪費したり騙し取られたりという、悪い意味で人間味溢れる面々。挙句の果ては死刑にまでなりながら、特には何の成果もないという結末。この究極に役立たずなところがいいのです。「役に立つ」という発想がもう、アナキズムの観点からしたらいじましいですからね!

そして、『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』。こちらも、kindleで何カ所ハイライトしたかわからないくらい面白かったです。評伝もいいけれど、こちらのほうがより思想が純化されていて、言いたいことがストレートに伝わって来ます。
「はじめに」でもう、いきなり目からぼろぼろウロコが落ちます。
「労働っていうのは、なにかをつくることに意味があるんじゃない、ながれをまもることに意味があるんだ。」
「あたらしい権力がたちあがった時点で、それはもう革命でもなんでもないんだと。だって、権力なのだから。真に革命的であるということは、権力なしでもやっていけるということだ、インフラなしでも生きていけるということだ。」
「ひとをカネでふるいにかけて、支払い能力のないやつをいじめぬくこの社会。いまはちょっとくらいカネがあったとしても、つぎは自分の番かもしれないとあせらされて、ひたすらカネにおいたてられるこの社会。」

……全く、仰るとおりでなんも云えねえ。この勢いで、最初から最後まで破壊力満点の論考が続きます。

あとの2冊は、アンソロジーと共著の対談本。こう見ると、バラエティに富んだ4冊ですね。
アンソロジー『狂い咲け、フリーダム』は、大杉栄に始まり、マニュエル・ヤンで終わる、日本のアナキスト列伝です…が、半分くらい知らない人でした(笑)。各人にもれなく付く栗原さんの短い紹介文がなければ、どう興味を持っていいかわからないくらい、とっかかりのない人物が多く、こうして見ると、アナキズムって日本では(世界でも?)明らかにマイナーな思想だということを痛感します。
懐かしの「だめ連」も堂々名を連ねていました。だめ連の本、実家にありますわ! 昔っからこのテの思想や生き方に魅力を感じていた自分というものをあらためて発見する思いです。アンソロジーには、神長恒一さんの短いエッセイが収録されていますが、今読んでも共感しか湧かないわね…。
金子文子という人は知らなかったのですが、どうやらあのブレイディみかこさんが評伝を執筆中らしく、これはまた期待大ですね。皇太子暗殺計画のかどで死刑判決を受け、その後減刑されるも23歳の若さで自殺。その裁判での弁明が清々しいほど真っ直ぐで、冴えています。
矢部史郎さんも面白かった。「自己管理」こそ奴隷の道徳という言説には目からウロコが落ちました。誰のための早寝早起き、誰のための健康維持、誰のための節約なのか、たまには真面目に考えてみてもよさそうです。

最後は、『文明の恐怖に直面したら読む本』。フランス文学者・白石嘉治さんとの共著です。ポップな表紙と判型が今どきのおしゃれ本風ですが、中身はぜんぜん違います(笑)。
やはり栗原さんがおすすめしていたので、白石さんの単著『不純なる教養』も持っていますが、なんとなく難しそうで積読になっていました。しかし、この共著を読む限り、栗原さんに負けずとも劣らないぶっ飛びぶりで、がぜん興味が湧いてきました。まず、冒頭近くの「文明とは巨大建築である」という定義に、ぐっと心を鷲掴みにされます。
そして、いま栗原さんが「島原の乱」に注目しているというのも嬉しいではないですか。わたしは、天草四郎=豊臣家の落胤説が気になるタイプのミーハーなキリシタン好きではありますが、島原の乱をアナキズムで解釈すると、悲劇や陰惨さだけではない、明るい面も見えてきますね。虐げられた貧しい民たちが、自分たちだってやれるんだ!と、大杉栄の言葉を借りれば「生の拡充」を図った、歴史上に燦然と輝く蜂起だと思えば。
いつか栗原さんが、アナーキーな島原の乱の伝記を書いてくれたら、絶対に読みます!

すべての本を乱暴に要約すると、大杉栄も云うように、「奴隷の生を生きてはいけない」ってことだと思うのです。
昔、毎回むちゃくちゃなスケジュールを強いる“お得意様”が耐えられなくて、当時の上司に「こんなの奴隷じゃないですか」って云ったら「サラリーマンは奴隷なんだからしょうがない」みたいな答えがさらっと返って来て、顎が外れそうになった記憶が…。
じゃあどうすんの?って云われても今のところ目ぼしい答えもなくてサラリーマンに甘んじているわたしは、目くそ鼻くそを笑うも甚だしいんだけど、それでも、「奴隷だからしょうがない」と納得したら、なにか大切なものを捨ててしまうような気がするんですよ。
でも、そこから脱出して「自由な生き方」を模索しようとすると、高確率でそれを餌にした高額セミナーや情報商材などに出くわしたりするのが、いかにこの世がとことん人を喰い物にするようにできているかの証左という感じで、苦笑いするしかないですが…。
この世界の複雑なシステムや約束事は、本質的には「ドラクエ」となんら変わらぬゲームであって、その世界観やルールに乗っかれるかどうかだけなのでしょう。
わたしも浅薄な人間なので、目の前に快楽があればそれですべてを忘れてしまう程度の自覚しかありませんが、おそらく何の根拠もないようなルールや空気を読むことがまかり通っていて、でもいちいちツッこんでいたら面倒くさいから、何も考えずに右から左へ受け流しているだけなのです。
このゲームのなかで勝者になる方法を探すよりも、ゲームの外で生きる方法の方がはるかに魅力的だと思うけれど、あまりにも長いこと、ゲームのルールが内在化されていて、トラウマのように自分を縛っている。誰もが官憲みたいに、それこそ自分の中にも官憲みたいなのが居て、小さな正義を振りかざして得意になっている。あれはダメ、これもダメ、それは違反で、あれは悪。誰もが“国民の血税”を代表して、生活保護受給者を叩く。

「旅くらい明確な目的なんかなくたっていいじゃないか」と、常々標榜して来ましたが、本当は旅だけじゃない、生きていること自体、明確な目的なんて無く、生産性(いま話題のやつ!)で生存の優劣を測られる筋合いも、本来は無いはずなのです。
いじましい自己啓発、自分磨き、自己管理……すべては自分を市場で「高く売る」「役に立たせる」ための努力に集約されていく悲しさ。まさに奴隷の道徳! 金にならないスキルを磨くのは時間の無駄とばかり、大学も就職してなんぼみたいな方向性にどんどんなっているし、会社にしたって、昔ならよくも悪くも会社が面倒を見ていたようなことが、あとは自分でやってくださいね、生き残りたかったらせっせとスキルを(自腹で)磨いてくださいねって感じになっていて、会社に勤めていなくとも終わりなく自分をピカピカに磨き上げる必要があって、もう、どんだけ稼いで役に立てば「人間」として認めてもらえるのかという基準が際限なくて、頭が痛くなります。
無償。無意味。無目的。ゲームに与しないためには、すべてを無に帰することも厭わないという強い気持ちが必要かもしれません。
「あらゆる秩序に灰になってもらわないかぎり、奴隷解放も動物解放もありえない。」(『何ものにも縛られないための政治学』より)

「だめの底を抜く」と、栗原さんはたびたび書いています。だったらもう、いまの社会で求められている「人間」を降りてやろうというわけです。
みんな大好き「おっさんずラブ」の後釜ドラマ、「ヒモメン」は、“働かないなんてありえない”という世の中においてはあまり評判がよろしくないようですけど、第1話で、お前のキャリアをずたずたにしてやる!と自らの権力を振り回す金持ちに向かって、ヒモ男が「無職の前では無力です!!!」とドヤ顔で叫ぶシーンには、腹を抱えて笑いました。
これぞ、「だめの底を抜く」! この鮮やかな逆転劇(?)こそが革命の本質。ぜひ、今年の流行語にノミネートしてほしいです。金と権力を笠に着ていばり散らすやつよりも、よっぽど清々しく見えるのは、演じる窪田正孝がイケメンだからという理由だけでもないでしょう。
なぜ、無職やニートや生活保護受給者を、何のてらいもなく「クズ」と呼べるのか。そのてらいの無さがどこから来るものなのか、もう少し立ち止まって考えるくらいの余裕はあってもいいいはずです。

アナキズムには具体策がないとか批判されるけれど、具体策がなければ価値がないなんてことはありません。まずは、叩き壊してから考えるってことも、時には必要だと思うのです。
だから、細かいツッコミを入れても意味がないし、ほとんどの批判は低層のレイヤーにおける正しさであり、アナキズムの観点からすると、ベーシックインカムですら、低次元の解決策にすぎないのかもしれないのです。
それでも、役に立つか否かに固執するなら、アナキズムは現代を生きるお守りだと思ってみるのもいいかもしれません。この世のルールに押し潰されて、身も心も瀕死になってしまいそうなとき、懐に忍ばせておくだけでも、少しは元気になるんじゃないですかね。