起きたらそこは月曜の朝だった……あの瞬間の絶望に似た暗い気持ちは、何度味わっても慣れてラクになるものではありません。
月曜の朝、それは呪いの朝。労働が始まる朝です。まだ寝たい体を起こし、餌のような朝食を食べ、最低限の化粧をして、通勤に出る。この起きてから会社に到着するまでの90分から2時間くらいの気分は最低です。週末にめんどくさいメールなんかが来ていたら最低度はさらに倍。やり場のない怒りと悲しみがないまぜになって、心が真っ黒になります。
勤め先は不完全フレックスで、月曜の朝には朝会などというものが設けられ、出社時間が決まっているのがまたつらい。
出社して仕事を開始すれば、さっきの気分はちょっと大げさだったかな?とも思うのですけど、まあとにかく、月曜は低電力モードで、無性に家が恋しくなります。

旅を終えて、再就職してからというもの、わたしは労働というものに絶えず忌避感を抱いてきました。
その思いは10年以上連続して働いたことで、いや増すばかり。最近では、「すべての不幸は労働から生まれている!」と原理主義者のような思想傾向になりつつあります。
貧困も、過労死も、ストレスも、うつも、セクハラも、パワハラも、リストラも、雇い止めも、男女差別も、家庭の不和も、少子化も、「保育園落ちた死ね!」も……労働と紐づいていない社会問題があるでしょうか?
保育園に落ちたことに憤怒せざるをえない世の中は、「寝不足でも、しっかり寝た肌の状態にしてくれるスキンケア」(実際にそういう謳い文句の商品があるんです)にも似た本末転倒感に満ち溢れています。本来、怒るところはそこじゃないような気がするのです。仕事が好きでバリバリ働きたい人はともかくとして、「保育園代を稼ぐために働く」という話を聞くと、なんでそんなに世の中が捻じれているんだろうと悲しくなってきます。

労働が生み出す問題と憎悪を考えると、思い当たることがいくらでもあります。
些末な例でいうと、わたしは満員電車が嫌で自転車通勤していますが、電車ほどでなくても、マシな地獄というだけのことでやっぱりつらい。自転車には走りづらい東京の道路を走るだけでもストレスが溜まりますが、赤信号で強引に曲がってくるトラック、隊列を組む歩行者、逆走する自転車、やけに長い信号……それらにイラつくわたしの、イライラの根本にあるものは「早く(会社に)着かなきゃ」という焦燥にほかならず、たかだか始業のための、5分程度の節約のために、信号を急ぐ必要も歩行者を障害物と見なす必要も、本来はないはずなのに、追いつめられる。早起きをして早く出ればいいという問題ではありません。その分、睡眠時間が削られるのは困るので、こっちもギリギリでやりくりしているのです。
世間で何かあるとすぐに炎上し、親の仇のように該当者を糾弾するのも、みな働きすぎ、或いは金がなさすぎて、心身ともに疲労しているが故のイライラが爆発しているんじゃないかと思えてきます。
また、「仕事ができない」という理由で人を批判する光景は珍しくありませんが、あれこそ、労働に歪められた悲しい心の表れです。
労働のために、人にイライラし、イライラされ、時には人格にまで及ぶ罵倒を受ける。労働の出来不出来で、他人が嫌な奴に、そして価値の無い奴に見える。まあ、なかには仕事のやり方が汚いとか人格に問題がありそうな人もいますが、仕事が遅いとか、効率が悪いといったことが、「人として許せない」のレベルに浮上してしまうのはなんだかやり切れません。あまりにも労働と人格が強固に結びつきすぎなのです。
そう考えると、メンタルを鍛えるだの、すべては心の持ち方次第だのというのは、呑気な戯言というか、自己責任論の最たるものという気がして、全面的に鵜呑みにできません。
もはや好きな仕事かどうか?という問題だけでもない。例え(比較的)好きな仕事だとしても、そればっかり休みなくやれるほど人間は機械のように安定してはいません。いくら魚卵が大好物でも、魚卵しか食べられない食生活はつらいのと同じです。
仕事=人生と思えるならそれもいいかもしれないけれど、遊びだって等しく大切と思う者にとって、現代の日本における仕事の比重は、あまりにも高すぎます。
それに、芥川賞を獲るみたいな一世一代の勲章でもない限り、仕事の達成感なんて、わりとすぐに消えてしまうものです。余韻に浸る暇なんてなく、やってもやっても次を、そして上を求められるのですから。達成度によって終わりが来ることはおそらくない。終わりが来るのは定年とか病気とかクビとか、身も蓋もない理由だけ!

月曜の朝に少しでも希望の光を灯してくれるのは、ツイッターでフォローしている“BI論客”の皆さんのツイートです。いつも餌を食べながら、いいね!パトロールにいそしみ、「いつかこんな世の中が来るかもしれないから」と、心を落ち着かせています。
わたしがよく見ているBI論客は、ポン介さん(旧うめポンさん)、遊民さん、入間川梅ヶ枝さん、はぐれおおかみさん、怒れるフェネックギツネさん……など、他10人前後いらっしゃいますが、その一人、「のらねこま」さんの著書『最強のベーシックインカム』(著者名は駒田朗さん、サンクチュアリ出版)は、経済に疎いわたしのような人間にもわかりやすく、現実的でありながら希望のある内容で、とてもよい本でした。共産主義との違い、他の社会保障との違い、財源と税収の話、インフレへの懸念など、BI反対論者がツッコみそうな部分は、逐一丁寧に解説されており、BI入門の参考書として、家族や知人に配り歩きたいくらいです(笑)。
経済を「金」ではなく「物」で考えることは、わたしのような経済オンチが、一見複雑な経済のシステムに惑わされないために、必要な視点だと思いました。お金イコール財(生産物)ではなく、お金は世の中に流通しなければ無と同じだということ。昔から、「金は天下の回りもの」とはよく云ったものですが、これをもっと体感的に理解する必要がありそうです。
のらねこまさんは、目指すべきは、皆が平等に裕福になることであると説いています。ここは案外重要なポイントで、ただ平等であるだけでは駄目なのです。平等に苦しみ、平等に貧困を目指す、ではまったく希望が持てません。
「何といっても社会は明るくなければダメだ。今の世の中は暗すぎる。大勢の若者がツイッターに『死にたい』なんて書き込むような社会は将来性がない。」

とにかくいま、世の中に必要なのは、労働(と貧困)からの解放、もっと簡単に言えば「余裕」ではないでしょうか。
どうしてこんなに物理的には便利になった社会で、そしてこれからも便利になるであろう社会で、相も変わらずサービス残業がなくならず、人は過労死寸前まで働き、職を失ったら失ったで途端に生存の危機にさらされるのか?というのが、いつもいつもわたしの素直な疑問なのです。
なんの遠慮もなく云ってよければ、人類が目指すべき理想は、「働かないで、たらふく食べる」(by栗原康)だと思います。
機械化で物を簡単に安価に生み出すことができるようになったので、人は必死で働かなくてもそれなりに暮らしていくことができるという状態。もはや人の労働がすべての価値を生み出しているわけではない現代において、それは、理論の上では十分成り立つことのように思えるのですが、現実はそうではありません。

BI論客の皆さんの共通した問題意識は、大きくは「富の再分配がうまくいっていないこと」「労働が生存条件になっていること」「労働が宗教化していること」の3つに集約されると思います。
ありあまる富の例として、わたしはアホのひとつ覚えのように「恵方巻きの大量廃棄」を思い浮かべるのですが、恵方巻きに限ったことではなく、ただ作られては人の手に渡らずに消えていく物(富)がこの世には大量にあって、一方で子どもの貧困が問題になるこの不均衡を是正するには、努力とか根性とか引き寄せの法則とかでなく、社会のシステムを変えるしかない。
つまり、労働(金銭)と引き換えの生存条件を、見直すということです。自分だけサバイバルする方法を必死で習得し運よく生き残れたとしても、これからのAI時代、雇用が大崩壊するといわれる未来においては、対処療法にすぎません。椅子取りゲームで数少ない椅子に座る術よりも、椅子取りゲーム自体を無くす、或いはみんなの椅子を用意する方法があるなら、わたしはそれを知りたい。そのひとつの答えが、ベーシックインカムなのかなと思っています。それはもはや、夢や理想ではなく、現実的な解決法として視野に入れる段階に来ているのではないでしょうか。
年1万円ずつ増やし10年くらいかけて定着させる(のらねこまさん案)、期限付き通貨にするなど方法もいろいろありそうです。決して万能なわけではないでしょうが、人間の生が全面的に労働に依存している現代の危険を、少しでも和らげる意味はあるでしょう。大手だろうが中小だろうが、一企業に人の生存を担わせるのは限界があります。だって企業は、人より金(利益)の方が大切な団体なのですから。そして、人は機械のように、使えなくなったら廃棄処分というわけにはいかないのです(無論、それが権力を持つ側の本音ではありましょうが…)。
再分配と生存の問題は全世界共通ですが、労働の宗教化については、さすがはkaroushiを生み出した国・日本特有の(韓国などもそうかもしれませが)病、自分が過労やブラック企業で病気や鬱にならない限り、なかなか脱却できない価値観だと思います。個人的にも数々の嫌な思い出がありますが、長くなりそうなのでここでは割愛。絶対的宗教ではなく、せめて規模の大きいゲームと考えるくらいの余裕は必要だと思います。

雇用が無くなる時代、なんていうと一様に悲惨な受け取り方をされがちですが(仕事の場での世間話でもよく出る話題)、生存にさえ影響しなければ、それは喜ぶべきことでしょう。働かないでたらふく食べられる豊かなユートピアを目指して、人類は発展してきたはずなのですから。
週休2日が3日になり、4日になり(なんなら休暇の方が多くなり)、長期休暇ももちろん取れ、失職してもそれなりに安全に生きていくことができる社会のほうが、誰にとっても生きやすいはずです。
そうなってくれれば、月曜の朝だって、きっとそんなに嫌じゃなくなる(かもしれない)。わたしはなにも、仕事を今すぐ辞めたいとかいうのではなく(今の世では辞めると野垂れ死にしますし)、せめて楽しく、気持ちよく、なるべく苦しまずに余裕をもって生きたいだけです。仕事にだってもちろん喜びはありますが、その餡子の部分を覆っている不味い皮が分厚すぎてね…。がんになっても働ける社会ではなく、がんになったらゆっくり休んで治療できる社会に暮らしたいんですよ。
それが当たり前になるには、「自分の心の持ちようだよ」なんて言いくるめられている場合ではなく、「じゃあ会社辞めればいいじゃん」という問題でもなく、「働かざる者食うべからず」とか「お給料はガマン料」という旧来の価値観を、一掃する必要があると思うのです。
怪しげな“働き方改革”に期待するよりも、長期的にはそのほうが、皆が幸せになれるのではないでしょうか。