「さらば青春の光」といえば、今ではお笑いコンビを思い浮かべる人も多いのでしょうが、これをタイトルに付けたのは、元ネタの映画のことを書きたいわけではなくて、なぜか男闘呼組の話です。

これまで、TM NETWORK熱が不意に再燃するということが何度もあり、このブログでも何度もお目汚しして参りました。
しかし、同じころにハマった男闘呼組に関しては、その後、わたしの中のファンスイッチが入ることはなく、あれは一時的な感染症のようなものだったのだろう……と思っていました。
ところが、人生とはわからないもので、ある日、BGM代わりにつけていた音楽特番で、ジャニーズの皆さんがメドレーの一曲として「TIME ZONE」を歌っているのを耳にしてしまったのが運のつき。過去にも、ジャニーズメドレーで「TIME ZONE」が歌われる光景は何度か目にしてきたものの、そこで特にスイッチが入るでもなかったのに、なぜか今回、100年の眠りから覚めたかのように、心を奪われてしまうという非常事態に陥っています。
これは猛暑の為せる業なのでしょうか? 暑さには、男闘呼組の暑苦しさで対抗せよという、一種の猛暑対策なのでしょうか?!

まずはウォーミングアップとして、過去に何度も観た動画を、ひと通りおさらいチェックしていると、なんと、成田昭次くん主演のドラマ「お茶の間」全話に行き当たるという幸運に見舞われました。
6年前のドはまり時期に取り逃したものがいくつかありますが、「お茶の間」はそのひとつでした。都内のTSUTAYAで何度も在庫検索して、やっと見つけたときも、すでに撤去されていただか何かで結局断念することになった、あの、幻の「お茶の間」が!
まさか、あれから6年になろうという今になって、神様がプレゼントしてくれようとは……。
いやー、堪能した。成田くん、やっぱり惜しい人材すぎる。歌ってる姿も声も好きだけど、演者としても光ってる!
不良っぽくてシャイなところが持ち味だと思っていましたが、このドラマの役みたいな、暑苦しいハイテンションキャラも上手いじゃないですか! 成田くんの田舎ヤンキー属性が遺憾なく魅力として昇華されていて、とってもいい感じ。
とにかくまっすぐで、根拠のない自信とゴキブリみたいな生命力の持ち主で、でも捨てられた子犬のような可愛らしさもあって……花井薫(役名)みたいな彼氏、実際に付き合ったらうっとおしそうだけど、こんなふうに熱烈に愛されるのはひとつの理想ですよね!

この「お茶の間」放映と同じ年(1993年)、映画「極妻」に出たのを最後に、もうドラマや映画でその姿を見ることはなくなってしまいました。
成田くんのドラマ出演、そんなに多くはないんだけど、どれもけっこういい役をもらっているんですよね。
「僕の姉キはパイロット!」(1987年)は、男闘呼組全員がパイロット見習い生の役で出演していましたが、成田くんは、主人公の教官パイロットを演じた浅野温子の弟役。この姉弟っぷりが麗しいのなんのって。勝ち気なキャリアウーマンの姉に、反抗的でちょっとシャイな弟。星野ありさに星野隼人って、もう名前からして完全に勝ち組だし!(?)
オープニングテーマが、男闘呼組の「STAND OUT!!」で、壮大なキーボードのイントロを背景に、制服に身を包んだ浅野温子と、私服の男闘呼組が滑走路を並んで歩いている映像が、めちゃくちゃハマっててかっこいいのです。

「オトコだろっ!」(1988年)は、リアルタイムでも見ていた記憶があります。
八ヶ岳の麓でペンションの便利屋を営む“ゴリラ”こと中嶋一郎太(西田敏行)のもとで、プー太郎の若者4人組(男闘呼組の4人)がひと夏のアルバイトにやって来てこき使われるだけのドタバタコメディですが、今見ると、男闘呼組の青春メモリアルビデオという感じで、切なさが止まりません。
長野あたりでペンションが大流行していた時代感も懐かしいけれど、DASH村的な田舎(案外、DASH村の原点はこのドラマにあるのかも)で、悪ガキどもがブーブー文句を垂れながらケンカばっかりしている姿は、大きな動物がじゃれ合っているような可愛らしささえあります。
ここでも成田くんは、“子どもと動物にしか好かれない”ちょっと硬派なキャラクター。他3人が、ラストではそれぞれ意中の女の子といい感じになるシーンがあるなか、ひとりだけ犬と子どもと戯れる場面が用意されているという、ある意味おいしい役どころです。途中、高橋くんとヒロインの不良少女を取り合うんですが、気持ちを伝えることなく身を引いちゃうんですよ。ヒロインと一瞬見つめ合いながらも目を逸らす演技が、なんとも悩ましげで上手いなあと思います。

余談ですが、ドラマの序盤、高橋くんとつかみ合いになる場面で、高橋くんが成田くんに「ショーケンみたいな顔しやがってよ!」という台詞はアドリブだったのか、気になります。確かに、ショーケンに通じるところ、あるかも……。

それに、ドラマじゃないけれど、あの名作青春映画「ロックよ、静かに流れよ」でも、誰よりも強烈な印象を残したのが、やっぱり成田くん演じるミネさでした。
これはほんと、これ以上ない当たり役だったわけですが、この流れで、紡木たくの「ホットロード」も男闘呼組、いや、せめてハルヤマを成田くんの若かりしころに撮影しておくべきだったんじゃないかしら? 特にこのマンガに思い入れがあるわけではないけれど、コワモテで気の優しいヤンキーときたら、当時の成田くんに叶う演者はいないのでは? あんなにリーゼントが似合う妙齢の男子は、他にいなかったと思うの!
その後の成り行きが消息不明という不幸な結末に至ったことにも起因していると思うのですが、あのころの成田くんというキャラクターには、青春の煌めきそのものが詰まっている気がするのです。ガラが悪くて、無鉄砲で、不器用で、でもホントは優しくて……ああ、なんてベタな、思春期しか許されないキャラ! だがそれがいい!!

と、ここまで成田くん中心で稿を進めてきましたが、男闘呼組4人で出演している3作品には、わたしの大好物にして泣き所の原点とも云える映画「STAND BY ME」的な、二度と戻らない季節、永遠の一瞬、うたかたの日々……つまり儚さゆえの切なさが通底しているように思うのです。
男闘呼組はみんなけっこう演技が上手くて、それぞれの持ち味が生かされていたのがまたいいんですよね。そして、落ちこぼれ役がよく似合う。愛しのろくでなし(ラストアルバムのタイトルも「ロクデナシ」だったわね)。
「青春は遠きにありて思うもの」とは、室生犀星のもじりですが、青春のただ中にいる人間には決して見えないのが、きっと青春の光というものなのでしょう。

最近は、自分はタイムトラベラーなのかと思うほど月日をワープしている感が凄いのですが、いつもどおり、(上)の更新から幾星霜となってしまいました。誰も読んでいないと思いつつ、(上)で終わっていると気持ち悪いので、今さら更新します。

さて、私は昔から腐女子属性濃厚な変態ではありますが、BLならなんでもいいわけではなく、刺さるパターンというのがやはりあるのだな……ということを、ドラマ「おっさんずラブ」を見て、あらためて思いました。
ちょうど「おっさんずラブ」の放送真っ盛りのころ、昔から読んでみようと思いながら機を失していた『夢みるトマト』というマンガを読みましたところ、これが意外にも、わたしのBLランキング上位に飛び込んでくる勢いの面白さでした。
青年誌に連載されていた漫画とあって、いわゆるBL的なスタイリッシュさやキラキラ感は皆無ですが、大島弓子の描くやおい的世界にも通じるような気持ちのよい読後感なのです。

主人公の玉吾は、従妹のとまと、同じく従兄の菜ちゃんと3人、死んだ祖母の家で同居を始めます。
玉吾は、だらしなくてエッチ好きという、極めて普通の男子大学生。1つ年上のとまとは、可愛い容姿の持ち主ながら、過去に誘拐されたことがあり、性的なことに異様に恐怖がある女の子。そして菜ちゃんはゲイ。家事万能、成績優秀というハイスペックな好男子です。
玉吾は彼女がいながらも美しく成長したとまとが気になって仕方ないのですが、とまとはゲイの菜ちゃんに全幅の信頼を置き(但し恋愛感情ではない)、その菜ちゃんは小さいころから玉吾が好き……という三角関係です。
性的にも性格的にもいたってノーマル男子の玉吾は、菜ちゃんがゲイであることを気味悪がり、時には心ない言葉で傷つけてしまいます(まあ、1980年代のお話ですからね)。
しかし、だんだんとその関係に変化が起き、物語の後半、玉吾と菜ちゃんは、一度だけ結ばれることになります。それは、歴代読んできた漫画の“性描写”のなかでも、5本の指に入るくらいの屈指の名シーンでした。単なるセックスではなく、もっと根源的な、自分の偏見や価値観を越えて人を受け入れることのメタファーとしてのセックス…というような、怒涛の描写は圧巻です。
ラストまではさすがにここでは書きませんが、わたしは久々に漫画を読んで嗚咽したのでした。二度と戻らない青春の煌めき、もう会うこともなくなってしまった人たちへの郷愁、そんなものがどばーっと押し寄せてきて、夜中というのに心の汗が止まりませんでした。

もうひとつ、やはりどマイナーな漫画で恐縮なのですが、『大きな栗の木の下で』という作品があります。
この2冊のコミック(正確には続編の『大喝采!』を併せて3冊)は、「実家で読みたいあの本この本」にも該当する本のひとつなのですが、こちらもまた、こうした性別や性癖の揺らぎを見事に描いた青春恋愛漫画です。
主人公の花田くんは、男子校の生徒会長でサッカー部キャプテン、学校の名物男と呼ばれる人気者。ですが、密かに、ちょい悪な下級生・高柳くんに恋をしています。
花田くんの妹・さくらは、友達と同人誌制作に励む筋金入りの腐女子。お兄ちゃんが誰か男の子と恋に落ちてくれないだろうかといつも願っています。花田くんは、とてもじゃないけれど、高柳くんのことをさくらには話せません。お祭り騒ぎになってしまうからです(笑)。
花田くんからすると、さくらの趣味はまったく理解不能でふざけているようにしか思えないのですが(大概の男子は腐女子に対してそう思っていることでありましょう…)、たまにさくらは、同性を密かに好きになってしまった花田くんの核心に触れるようなことを言ったりします。

花田「…おまえの好み(の男子)って…」
さくら「男の子に恋するタイプ」
花田「(!?)」
さくら「冗談だよーん。でもそんな 男の子にもつい恋してしまうような ナイーブな男の子が さくら 好きなんだ」

結局、花田くんは気持ちを伝えることのないまま、高柳くんは転校してしまいます。
ふたりはその後、海水浴で再会しますが、花田くんも高柳くんも女連れ。といっても、花田くんは妹軍団のお守りで、高柳くんは年の近い親戚の叔母さんと一緒だったわけですが、お互いそれを知ることもなく、花田くんは自分の初恋をひっそりと埋葬します。
高柳くんの後姿を目で追いながら、
「俺はずっと…彼に笑いかけてほしかったんだ…」
そう呟く花田くんが切ない。

この二作品に共通するのは、どマイナーなこと……ではなく、“性別の揺らぎ”を描いたBL、という点だと思います。
そして、わたしが好きなBLというのは、男と男が当たり前に結ばれるある種のユートピアではなく、古いジェンダーの枠を越え、殻を破っていく課程が見えるBLなんだな、と。それがあるべきBLの姿と云いたいのではなく、単に好みの問題なんですけどね。
そもそも恋愛の尊さとは、自分の理想が理想のまま形になることではなく、自分一人では到達しえなかった思いや価値観に気がつくことではないでしょうか? そこにカタルシスがあるからこそ、漫画やドラマというフィクションの恋愛にも、人は感動を覚えるのではないでしょうか。
「おっさんずラブ」のよさも、BL的に都合がいいわけではない世界で(でも部内のゲイ率高すぎだけど!笑)、ぼんやりしていた主人公が、同性に好きになったりなられたりして混乱に突き落とされるうちに、新しいドアを開いていく過程にあるんじゃないかと思います。
だから、BLの物語の主軸にノンケがいることは、個人的にとても重要なファクターになっているのかもしれません。
いずれも紙の本はとっくに絶版ですが、kindleで読めますので、ぜひ“埋もれた名作”を手に取ってみてくださいね☆

ところで、未だにドラマのファンは多いようで、放映中はツイッターでもずいぶん楽しませてもらいましたが、当時ちょっと怖いなと思っていたのが、腐女子界におけるカップリング論争でした。
牧春原理主義者(牧と春田のカップルしか認めない主義者)みたいな人が少なからずいたらしく、ラスト付近で部長がはるたんと暮らし始めたのを見て、番宣用に開始された部長のツイッターに本気で突撃する人たちが現れるという恐ろしい事態に…。
わたしも腐女子の端くれ、二次元で妄想する趣味は充分持ち合わせておりますが、あらためて、深入りしてはいけない世界だと思ひました。リバ(攻受逆転)も凄く嫌われていますよね。やっぱ、BLって性癖的な部分に抵触するデリケートな世界だからかしら。
あとは、「悪い人がひとりもいない世界」という絶賛をちらほら見かけたんですけど、それもむず痒かったなあ……。いや、おっさんずラブに限ったことではなく、いろんなフィクションでこのテの絶賛を見ると、いつも違和感があります。
すみません、最後はなんか悪口みたいになってしまったな(笑)。

たいへんご無沙汰しておりますっ(汗)。
久しぶりに更新しましたが、腐女子の独り言みたいな内容なので、ご興味ない方はスルーしてください…。

 

前シーズンから視聴している「家政夫のミタゾノ」第1回を観ていて、たまたま番宣で流れた「おっさんずラブ」。
腐女子の端くれとしての勘が働き、こ、これは見なければ……と観始めたら、あら大変。自分もだけど、それ以上に世間が沸騰してちょっとした祭りになっていました。
昨年のブレイク俳優が高橋一生なら、今年は田中圭で間違いないですね。体も鍛えているし、そのうち「an-an」がまた脱がせにかかるのでは?と心配になります…。
これだけ世間で騒がれ(と云っても、現実世界の周りで観ている人はそんなにいなかった)、どハマリしている人多数になると、ちょっと引き気味にもなってしまうのですが、とりあえずLINEスタンプは買ったし、オフィシャルブックはきっと買うし、ドラマの後にはうっかりツイッターで呟いちゃうし、何より4カ月ぶりにブログを更新している時点で、わたしもしっかりハマっている証拠です。

知らない方のために、ごく簡単な説明を。と同時に、この先はネタバレ含みますので、ご了承くださいね。
不動産会社で働く、どちらかというとダメ男の主人公、春田創一(愛称はるたん)が、ある日突然、仕事のできるダンディな上司、黒澤武蔵(中身は恋する乙女)に告白され、時を同じくしてやっぱりデキる後輩でルームメイトの牧凌太(ドSで巨根)にも思いを寄せられて……という、恋愛ドラマやBLも含めた少女漫画の歴史においては、たいへん既視感のあるストーリーです。
制作側はBLとして作ったわけではなく、いわゆる月9的な恋愛ドラマを男同士でやったらどうなるか? という試みだったらしいんですが、それってやっぱりBLなんじゃないでしょうかね?
やおいの時代から、いや遡れば24年組の時代から、男女の恋愛を男男に置き換える試みは脈々と行われており、それが現在のBLに結実しているとわたしは思うのです。男女でも成立する話を、わざわざ男同士で組み立てるのがBLの世界です。
でも、設定こそ男女で置き換え可能だけれど、男男でしか生まれない「何か」というのがあるわけで、腐女子たちはそれを求めて薄い本などを読んでしまうのではないでしょうか? たとえそれが、本物のゲイの方々に失礼だとしても…。
その「何か」は、腐女子によってさまざまなのでしょうが、概ね“男同士の恋愛は純粋”という妄想(狂気?w)に集約されるのではと思います。そうでなければ、このドラマがこんなに盛り上がるはずがありません。試しに男女で置き換えてみれば、どれだけ陳腐になるか分かります。
だから、このドラマを、BLじゃなくて純愛ラブストーリー!と称賛する人たちの気持ちは分からんでもないけれども、やっぱりBLなんじゃないか(いい意味で)というのが、わたしの感想です。

「おっさんずラブ」を観て、まずわたしが思い出したのは『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』でした。
数年前にどハマリしてブログでも書いたことのあるマンガですが、これも、ストーリーはいたってシンプルなんですよね。あらすじだけ読んだら、読む気が起こらないほど拍子抜けします。でも、余計な設定がない分、鬼気迫る現実感がありました。
ドラマの前半は、後輩の牧と、『窮鼠~』でノンケの主人公をずっと思い続けている今ヶ瀬渉がいちいちオーバーラップしてきて、切なさに胸を焦がしたものでした。ノンケの男に惚れてしまって、でも相手に垣根を越えてほしいとは要求できなくて、相手の優柔不断さに引きずられてにっちもさっちもいかなくなる……みたいな感じ。
ただのルームメイトだった春田に、つい強引にキスしてしまって、家を出ようとしたんだけど、やっぱり友達として一緒に住もうよと引き止める春田に、「もう、元には戻れないです」と、唇ではなく額にキスする牧くんとか、なにこの今ヶ瀬っぷり!って(笑)。あと、やたら世話焼きで家事がパーフェクトなところも今ヶ瀬!!
主人公でノンケの“流され侍”こと大伴先輩と春田も、「なんか好きになられちゃったし…」とずるずる付き合っちゃうタイプってところは似ていますね。大伴先輩はそれなりにモテ男で、春田はモテない設定ですが…。
だから、ドラマの最後は、大伴先輩と今ヶ瀬の攻受が逆転したあの時を思い出して、ああ、こういう組み合わせのひとつの到達点ってここなんだろうな、とか意味不明な納得をしてしまいました。
ついでに、BLでたびたび議論になる女子の存在についても、「ただの噛ませ犬じゃない、ちゃんと存在のある女子でないと登場してほしくない」という、やたらに厳しい腐女子のワガママを、ドラマもマンガもしっかりクリアしておりましたね。

しかし、『窮鼠~』と「おっさんずラブ」の決定的な違いは、なんと云っても部長、黒澤武蔵の存在です。
前者には、これに替わる登場人物はいません。部長がいたからこそ、LGBTがどうこうというデリケートな話にならずに、“あくまでラブコメ”として、腐女子だけではないお茶の間になじむことができたのだと思います(セクハラの観点からのご指摘もありましょうが…)。
初回登場時、いや番宣からすでに異質な存在感を放っていた部長。初回終了後すぐに、ほとんどの人が牧春というカップリングに流れたことを思えば、部長は、番組側が「ヒロイン」と位置付けているにも関わらず、終始ないがしろというか、ただのギャグ要員にされていた感がありました。
極めつけは6話のラスト、牧と別れた春田が、1年後、部長と同棲しているという衝撃の展開で終わった際、SNSには牧と春田が結ばれる結末しか許さないという過激派が溢れ返る羽目に…。いや、かわいそうすぎやろ、部長…。
そんな騒ぎを目の当たりにして、すっかり及び腰になってしまったわたしですが、一緒に観ていた夫も「なんだよこの展開は!ありえん!テレビ局に抗議するお!(←部長風)」と激昂しているので失笑しました。カップリングに厳しいのは、腐女子だけの特権(?)ではなかったようです。
まあわたしも当初は牧くんを応援していた方ですけれども、吉田鋼太郎のあのいかつい外見で全力で乙女を演じられたら笑ってしまうんですけれども、部長だって幸せになる権利あるやん!と、判官びいきのわたしはつい、肩を持ちたくなってしまったのでした。
部長は真っ直ぐで、牧はちょっと自虐的なんですよね。「春田さんなんか好きじゃない」と嘘をついて家を出てしまう牧。その切なさに共感することはもちろんできるんだけど、こういう“こじらせ感”は、自分の恥部を見るようで辛い(苦笑)。心とは裏腹の言葉をつい投げつけてしまう感じ、とてもよくわかるよ!だけど、わかるからこそいたたまれなかったです。なんでそんなこと云っちゃうの…って。


それに、なんだかんだで最終回、いちばん泣かせてもらったのは部長でした。
「はるたんが大好きです。君に会えてよかった。」こんなに使い古された言葉が、あれほど涙腺を刺激してくるとは思わなかったなぁ。
結果がどうあろうとも、誰かを好きになってよかったという気持ちの純粋さは、胸を打ちますよね。
何の見返りも求めていない…って、そりゃ好きになってくれたら、結ばれたら嬉しいに決まっているけど、もしそうじゃなくても好きになれて幸せだと言えるその潔さよ! わたしみたいな真っ黒な心の持ち主には死んでも云えないセリフ!
だけど、こんなふうに人を好きになれたら、たぶんそれは一生の宝物になるんだと思います。

で、また(上)とか書いて、(下)はいつアップされるのやら、自分が自分をいちばん信用なりませんが、とりあえず、(下)に続く!

なんということでしょう、前回の更新からたった数日で更新できるなんて。
じつはわたしは、やればできる子だったのでしょうか?
ダブル青木と勝手に並べるのも違和感ありまくりですが、第3回は青木景子、第4回は青木光恵を取り上げようと思います。名前が同じで、わたしが好きだという以外に特に共通点はありません。

青木景子は、わたしの子ども時代において重要なパーツのひとつである「詩とメルヘン」からプロデビューした詩人です。
「詩とメルヘン」とは何ぞや? それは、故・やなせたかし先生が編集長を務めた、サンリオ刊の月刊誌。タイトルのとおり、題材は詩と、「メルヘン」というファンタジックな大人の童話が中心で、そこに美しいイラストが惜しげもなく添えられた、今思えばなんとも贅沢な雑誌でした。
「詩とメルヘン」がわが家にやって来たのは、父が偶々、書店で見つけて買ってきたのが最初です。わたしの父母は、わたしとは似ても似つかないほど読書をしない人たちでしたが、「本を読めば賢い子になる」とでも思っていたのか、本は比較的多く買い与えてくれました。だいぶあとになってから、「なんで『詩とメルヘン』を買って来たん?」と訊いてみると、「きれいな本やなあと思って」と答えが返って来ました。父にもきれいなものを愛する心があるんだと、ずいぶん失礼な感想を抱いたものです(笑)。

「詩とメルヘン」は、詩人やメルヘンの作家だけでなく、数多くのイラストレーターを起用していました。
北見隆、東逸子、黒井健、葉祥明、牧野鈴子、きたのじゅんこ、おおた慶文、味戸ケイコ、早川司寿乃、高田美苗、内田新哉…ああ、名前を打つだけで懐かしさとときめきが蘇って来ます。宇野亜喜良や林静一といった、当時でもすでに大御所のイラストレーターの作品が見られるのも、たいへん貴重でした。
このころは、サンリオから詩集や大判の画集が、ばんばん出版されていたもので、正方形の詩集には、やはり詩とメルヘン関係のイラストレーターが絵を手掛けました。
メルヘンの分野でも、谷山浩子や安房直子、竹下文子、すやまたけしといった方々が執筆しておりまして、特に谷山浩子のこのころの小説が大好きでした。眠る方の夢を語ることは至極難しいものですが、谷山作品においては、それが成功しているかのような不思議世界が見事に描かれているのです。

…と、ついうっかり「詩とメルヘン」について熱っぽく語ってしまいました。まだまだ云いたいことがあるので、いずれ稿をあらためましょう。
さて、青木景子の詩に初めて出会ったのは小学生のころで、当時はなんだか難解な詩に思え、あまり魅力を感じていませんでした。それよりは、きのゆりの書く少女の童謡のような詩が好きでした(きのさん、いまはどこでどうしていらっしゃるんでしょう!)。
ところが、もう少し大人になると、青木景子の魔術のようにかっこいい言葉遣いに魅了されるようになります。
これが詩人の言葉かとノックアウトされる、アクロバティックで研ぎ澄まされた言葉。音楽のようなリズム。炭酸水のように爽やかな刺激。張りつめた糸のような緊張感。秘境の湖のような透明感。それらはしかし、完成された隙のなさではなく、どこか不安定でぎこちなくもあり、かえって作品の魅力を際立たせていたと思います。
タイアップページに添えられた詩、巻末の投稿者からのお便りにすら、詩人の香りがしました。
どの詩が好きかと問われると困ってしまいますが、いま、手元にはデビュー作の『プラチナ色の海』しかないので、そこから一編、季節に合わせて引用してみます。

「美しい二月」

いっぽんの線に
みんなで並んだら
いっせいに走り出せ!

僕たちは
体ごと空を切って
走り書きのような毎日から
ころがるように飛び出すんだ

長い助走につかれたり
長い迷路にとまどったり
フットワークもなにも
あったものじゃない毎日に
はいつくばってなんかいたくない

風に似たかろやかな
僕たちの脚は
二月のきらやかな光にさらされて
どんな草よりも
どんな樹々よりも
澄んできれいだ


この詩集は、「詩とメルヘン」の投稿作品もいくつか収められているので、「あ、この詩はきたのじゅんこのイラストが添えられていたな~」など、朧げながら思い出すことができて、懐かしいです。他にも好きな「片思い」という詩は、牧野鈴子のイラストだったっけ。
詩集はこのあと、確か再録本を含め7冊が出版されるのですが、内田新哉が絵を手掛けた『道の途中で』は、青木景子の透き通った世界観が、イラストと絶妙に共鳴し合っていたと思います。海に漂流する青い瓶の中のような世界。
そして、忘れてはならないのが『ガールズ』。詩で紡ぐ小説のような作品です。3人の少女が語り手となり、それぞれのモノローグが詩で綴られ、物語ともいえないような日常が進行していきます。刹那を生きる少女らしい粋がり方、子猫のような弱さ、小さくて壊れそうな愛…、まるで青春の宝石箱のような一冊です。

やがて、その表現をさらに研ぎ澄ませるかのように、詩よりも制限がかかる短歌へと活躍の舞台を移していくことになります。
早坂類と改名して出版した処女歌集『風の吹く日にベランダにいる』は、現在ではAmazonで1万円近いとんでもない高値がついていますが、運よく普通の値段のときに入手でき、やはり実家の本棚に鎮座しています。
いまや絶大な人気と地位を誇る歌人・穂村弘も、著書『短歌という爆弾』で、たびたび早坂類の歌を取り上げています。“この歌はほんとうのことだ”と感じさせる圧倒的な力、独特の緊迫感と評していましたが、まったく同感です。

ジャングルの夜にまぎれてドーナツとアイスクリームを食べている。風。

ブティックのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏

カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした

虹のたつむこうの岸はあてどないあこがればかりに埋め尽くされて


いかしたコピーのようなきらめきと、詩人にしか紡げない言葉の選択と配列。
詩から短歌へと移っても、透明で張りつめた表現、鮮烈な言葉遣い、明るいのに寂しいような世界観は変わりなく、言葉の芸術とはこういうことなのかと目が洗われる思いがします。この、明るさの裏にある寂しさというのは、TM NETWORK時代の小室さんの楽曲にも感じていて、たぶんわたしのツボにはまる感覚なのでしょう。
小説もいくつかお書きになっていますが、小説になると描写や進行のために余分な言葉を加えていかないといけなくなるので、やっぱり詩か短歌のほうが真髄を味わえるのかなという気がします。

余談ですが、かなり後年になって、彼女が主宰する「RANGAI」というサイトから、彼女自身が手作りした1点もののビーズのネックレスを購入したことがあります。なかなかのファンですね(笑)。他にも死ぬほどアクセサリーがあるので、なかなか着用の順番は回ってこないけれど、それはお守りのように、アクセサリーケースのなかで静かに待機しています。
ツイッターもフォローしているものの、最近はあまり拝見していなかったのですが、久々に読んでみると、いまは北九州市でブティックを経営されていることが判明。どこだろう、気になる…。

さっそく間が空きまくってすみません、実家で読みたい本・第2回は、平中悠一です。
平中悠一作品との出会いは、受験生のころ、たまたま深夜に放送されていた映画『She's Rain(シーズ・レイン)』でした。
彼のデビュー小説が原作となっているこの映画は、作品自体の出来以上に、阪神大震災が起こる前の、芦屋や神戸の美しい風景が映像に残っているというだけでも、今となってはたいへん貴重です。当時を知る人ならばなおのこと、泣けてしょうがないのではないかと思います(Amazonでは、VHSにも係わらず結構な高値がついていました。わたしもVHSを持っていますが、プレイヤーを実家に送り返してしまったので、観たいときに観られません泣)。
かくいうわたしも、内容以上にその映像に魅せられ、大学生になったらあのあたりを散策しまくるぞ!と勢い込んだものでした。その夢は、震災によって儚くも砕け散りましたが…。
関西に住んでいる者にとって、阪神間、とりわけ阪急沿線の“あのあたり”は、ちょっと特別で、憧れを伴う場所なのです。それは単に、金持ちが多い高級住宅地というだけでなく、絶えず涼やかな風が吹いていそうな、大阪や京都とは違った軽快で洒落た雰囲気のためもあると思います。
そして、映画および小説で描かれるのもまた、そうした別世界でした。

時代はバブル前夜(1984年)、神戸の坊ちゃん嬢ちゃんたちが繰り広げる麗しき恋愛模様。教会で結婚式の真似事をする主人公の少年少女、少年は男子だけど子どものころからピアノを習っていて、高校生になったらプール付きの友達の家でホームパーティ…っておい! 関西のどこにそんなユートピアが存在するんだよ! 
…と、関西圏住みたくない街候補の某市で生まれ育ったわたしには、どこからつっこんでいいかわからないほどきらきらしい世界なのですが、それは決して架空の出来事ではなく、平中氏が住んでいる世界そのものだったことが、エッセイ集『ギンガム・チェック』を読むとわかるのです。
『She's Rain』から始まる、華やかだけど切ない“若い男女の神戸ラブストーリー”な小説群もよいけれど、エッセイになると、ご機嫌で無鉄砲なお喋りを聞いているようで楽しく、ウキウキします。
なかでも、神戸の魅力的な女の子たちについてのエッセイは、ご自身が好きなものだからか(笑)、素晴らしい熱量で語られています。
初読はもうずいぶん前のことになりますが、いま読み返しても驚くのは、神戸のお嬢さんたちは、中学生で『JJ』を卒業しちゃうっていう話。中学生で『non-no』すら買うお金も知恵もなかったわたしには、まるで異国のおとぎ話です。
「神戸式別嬪について」というエッセイのなかで、平中氏と同級生らしき女子大生が「東京ってすごいのよ。ショート・ヘアとかピンク・メイクの綺麗な方がいらっしゃるのよ」とのたまう記述にも驚きますが、神戸における美人の必須条件は、長い髪にブラウンメイクであり、要するに、早いうちから“女”として完成されているのが、神戸のお嬢さんたちなのですね。「彼女達にはもう、フェミニンしかないわけ。」 ああ、なんて潔いのでしょう。いい年こいて、“かわいいもの”集めにいそしむわたしとは大違いよ!(笑)

昔から、神戸という街がやけにハイソに見えるのは、そんな大人っぽさや成熟を好む文化のせいなのでしょうか。いまや関西は、東京の二番煎じに過ぎず、後塵を拝しまくっていると個人的に思いますが、このころはまだ、二項対立的に文化の違いがあったのだなと、惜しみたい気持ちになります。シティボーイ&ガールは東京人だけのものではなかったのです!

まあ、誰も彼もが中学で『JJ』を卒業する必要もないとは思いますが、この時代の、神戸文化(より正確には阪神間文化?)のコンサバティブな思考って、一周回って健全に感じられるから不思議。
この80年代当時ですら、平中氏は自分がコンサバであることを自覚しているので、21世紀を過ぎて20年近く、ジェンダーの問題も語り尽くされてきたいまでは、思いっきり時代に逆行していると思うものの、一方で、古きよき美しさも感じられたりします。
例えばこういう記述に、わたしはある種の清々しさを感じるのです。フェミニズム的視点からすればつっこみどころ満載だとしても。

「女」という一点に於いてしか勝負しないということはつまり、知性(?)やセンスによって所謂「いい女」度をリカヴァーできない、ということでもある。だってマキナニーがどうのとかヴェンダースがどうのとかいったって、彼女達にかかれば「なに、それ」ってなもんだから。正直いってそういう」アイテムに乗ってくるコって僕にとっては簡単なわけ。でもそういう女のひとってかなり冒されてると思うよ。「男という病」に。女のコってもっと快感に対して素直に反応できた方が仕合わせな気がする。(中略)僕個人としては女のコには女のコである、というそれだけの理由で惚れたいし、才能とかセンス込みで惚れる、っていうのはなんだか不潔な気さえしてしまう。

男に媚びた服きて偉そうにして、みたいないわれ方してるけど、女のコが男に好かれようとする、若いから生意気、そんなの当たり前じゃない。(中略)かあいくなろうと努力してるコがかあいいのは当たり前だし、そのコのことをかあいい、っていってどこが悪いのさ。あのコなんてすっぴんになったら、とかってすぐいうけど(中略)関係ないじゃない、化粧してかあいけりゃ。

ああ、自分の性やジェンダーについて小難しく考えなくてもいい時代に、すっと大人になりたかった(笑)。って、そんなに真剣に考えて生きてきたわけでもないですけど。
『ギンガム・チェック』は、『バック・トゥ・キャンパス』と名を変えてのちに文庫化され、そちらは東京に持って来ているのですが、やっぱり仲世朝子さんのイラストに合った80年代らしいポップな装丁の単行本のほうが雰囲気が増しますね。
巻頭には、本人のモノクロポートレイトが4ページにわたって掲載されているのもなかなか貴重です。関西学院と言えば大江千里ですが、ちょっと感じが似ているのは校風のせいでしょうか。

2冊目の『シンプルな真実』は、もう少し時代が下って、90年代に書かれたものなので、だいぶ落ち着いて内省的になった印象もありますが、車やお酒、オペラやクラシック音楽についての薀蓄は相変わらずの饒舌ぶりで、独断と偏見に満ちていて、やっぱりウキウキします。
「夕飯のパスタを茹でながら安い白ワインをくいくい飲む」とか、「うだるような暑い日にトリスタンの《前奏曲と愛の死》を聴きながらよけい暑くなって、死ぬ―とか云いながらうだうだお昼寝するのが好き」みたいな記述を読むと、いいな~その感じ、と、昔も今も思います。
ひねくれてるなと思うところもあるけれど、根底が健全、陽性で(「若いうちは、村上春樹ではなく片岡義男を読もう」とかね!)、読んでいて気持ちがいいのです。やんちゃだけどお上品で、悪意や嫌味ったらしさがなくて、ちゃんと恋愛を信頼していて。そう、平中氏のエッセイをひと言で表すなら、「気持ちがいい」がいちばんしっくり来る。だから、実家でぬくぬく過ごしているときに、何度も手に取ってしまうのかもしれません。次の帰省時には、芦屋か夙川あたりの喫茶店に持ち込んで読んでみるかしら…。

現在はパリ在住で(いつの間に?! どんな紆余曲折で??)、フランス人作家パトリック・モディアノの作品を2冊翻訳していますが、ご自身の作品は、『ミラノの犬、バルセローナの猫』(エッセイ)を最後に出されていないのが残念です。最近、『ベルリン日和』という短いエッセイだけ、電子書籍になっていたのでさっそく拝読しましたが、やはりエッセイは一編だけでは物足りない! 電子でもいいので、ネタもマニアックでいいので、いつかまた、まとまったエッセイ集を読みたいものです。パリ案内とかもいいね!

前回の続きを書いている最中、他ならぬ小室さんのニュースが飛び込んできて、頭の中はそのことでいっぱいです(いや、他にもっと考えるべきことはあるのですが…)。
さまざまな言葉がずっと脳内を駆けめぐっていて、早く吐き出さないと消化不良を起こしそうなので、上手くまとまらないかもしれないけれど、思いつくままに書きます。

 

不倫云々は、本人も、己の男性機能の低下にまで言及して(!)否定していることだし、そもそもどこまでがセーフでアウトなの? という疑問もあるので、わたしの中での重要度はそんなに高くありません。
それよりも、会見でも話していたように、今回のことはきっかけに過ぎず、20年も感じていた才能の枯渇や自分の音楽をもう時代が必要としていないんじゃないかという自問自答がまずあって、さらに先の見えないKEIKOの状態と介護のことで、とっくに目一杯になっていたんだと思うのです。
ここ数年、小室さんは積極的にメディアに出ていて、なんだかんだで愛されてるじゃん小室さん!と嬉しかったけれど、ほとんどは90年代のブームの振り返りばかり。常に破壊と創造を繰り返して、新しい未来を語ってきた小室さんには、じわじわと辛かったんじゃないのかな。
かく云うわたしだって、近年の仕事よりも、もっというなら90年代よりも80年代のTM期がなんだかんだでいちばん好きなんだけど…ごめんなさい小室さん。そもそもがTM NETWORKのファンだからそれは許して!でもAAAに提供した曲は聴いてますよ!「仮面ライダービルド」の曲も「アイナナ」のTRIGGERの曲もかっこよかったですよ!
こんな云い方はよくないけれど、不倫に至れないくらい弱っていることのほうが、ファンとしてはいたたまれない。昔の女性遍歴を考えたら、こんなもの悲しい不倫報道は小室さんらしくない。
いまはとにかく疲れているんですよね、小室さん? 疲労が云わせているんですよね? しばらく休んで、体調整えて、疲れが取れて、心身ともに余裕ができたら、また音楽を作って、帰ってきてほしい。

 

ファンの前に今後姿を表す可能性を尋ねられたとき、
「「なんでもいいから、生き恥晒してでもいいから、音楽作れよ」という意見が何割あるのかというところで。(中略)この時代ですから数字に如実に全部出てきますので。その数字に従いたいかなぁと今漠然と思っています」
と答えていた小室さん。
数字とは、売り上げのことなのか、SNSなどの反応のことなのか分からないけれど、期待があれば応えてくれるってことだよね? とわたしは一縷、いやもう少し多めに望みを抱きました。だって、「”悔いなし”なんて言葉は一言も出てこない」って云ってるんですよ?音楽に未練ありまくりじゃないですか!少なくともツイッターは小室さんを惜しむ声で溢れかえっているんですから!
生き恥だなんて全然思わないけれど、生き恥さらしてでも音楽を選んでほしい。安室奈美恵の引退は潔くてかっこいいかもしれないけれど、そうじゃない、見苦しくもがくことのかっこよさもきっとあるし、そこに心を揺さぶられる人だってたくさんいるはず(その意味で、浜崎あゆみは立派だなと思う)。現に今だって、そんなにも長い間、才能の枯渇を感じながらも音楽を続けてきて、ちゃんと納期も守ってきて(1週間遅れで反省するなんて…YOSHIKIとかどうなるんですか!笑)、私生活では家族の辛い姿と向き合ってきて…その必死に生きる姿だけでもう、尊いとさえ思う。どこかのインタビューで、お墓には「I’m proud」と刻みたいって答えていたけれど、小室さんは十分すぎるほど頑張ってきたって、みんな知ってますよ。
宇多田ヒカルの登場で自分は終わったと感じた、という話をあちこちでしていますが、会見によれば、今はそういう存在は日本にはいなくて、あくまでも自分との戦いだと。
90年代みたいなブームはきっともう来ないでしょう。でも、てっちゃんとか先生とか呼ばれて、仲間と一緒に音楽をやっていた原点に、また戻ってくれたらいい。音楽がただ好きだったころに。坂本龍一みたいに、自分のやりたい音楽に徹して創作していくのもいいと思う。

 

会見の小室さんは茶化す余地もないシリアスさだったけれど、ふと「不倫報道で引退宣言までジャンプするなんて、さすが小室さんは希代のトリックスターだわね」と、妙なところで感心してしまうファン心理(笑)。
不倫の釈明のはずが、最後は社会における介護問題への言及で終わるという「???」な展開も、なんだか小室さんらしいな、と微笑ましかったりして。
まだどこかに、メディアを騒がせたり、世間を驚かせたり、人を煙に巻いたりするユーモアやサービス精神、或いは不遜さが残っているんだと信じたい。

 

ちょっと話が逸れますが、これは小室さんに限ったことじゃないけれど、アーティストの道徳性を厳しく問うのはなんだかナンセンスだなと思ってしまいます。むしろ破天荒に生きて欲しい、すべてを芸や作品として昇華してほしいと、どこかで願っているから。普通の人と違うからこそ生まれる目も眩むような創造(TMで云うところの”金色の夢”)に、普通の人は期待しているのです。
だから、数々の不倫報道過熱の先駆けとなってしまった川谷絵音とベッキーの件も、「それはそれとして、でも彼の作る音楽はいいし、才能あるよね」と思っていて、運悪くバンド名に「ゲス」なんて言葉を入れてしまったせいで格好の餌食になって燃えに燃えたんだよね、とか、だいぶ甘々な感想を抱いています。まあ、今回の小室さんの件と比べたら、遙かにタチの悪い話ではあるでしょうが…。
あの報道が出る直前のゲスの極み乙女。というのはまさに上昇気流に乗ったアーティスト独特の輝きがあって、あのまま順調に行っていれば、もっとその才能や音楽性に注目されるべき存在だったと思うので、もったいないことです。
それでも、まだ若くて体力も気力もあって、なにより自分の才能を信じられるから、世間がなんと云おうと復帰して、バンドも続けていて。このくらいの自信と図太さが、今の小室さんに小さじ1杯くらいでもあればね…と思うけれど、それは酷な話ですね。
「病的なのはメディアでも週刊誌でもない。紛れもなく世間」などと本人がコメントしていて、「お前が云うな!」とまた叩かれていますが(笑)、ここまでの大騒ぎになった要因は、文春のせいだけでもなく、大衆の憎悪に拠るところが大きいのは否めないと思います。週刊誌がこういう商売なのは、今に始まったことではないのですから。
だから今回も、文春を許さない!なんて気炎を吐いている方も多いけれど、全面的には賛同できない違和感があります。
小室さんの今回のことはやむをえない事情があるから…と擁護する役目は大衆が果たせばいいのであって、そんな曖昧な基準で誰かはボロクソに断罪して、誰かは擁護するというのも、メディアの姿勢としては違うのかなと思ったり。トピックの内容を見て判断するのは結局、大衆だということは、この2つの不倫報道を見ても顕著ですよね。

 

まあ、もっと根本的な話をすると、一般常識として不倫は許されなくて、アーティストや事情のある人だけが許される(許されてないけど…)というのも変な話なんですけどね。
どんなに倫理的、社会的に間違っていたとしても、恋愛の世界では愛し合っている者が勝ち、というのが否めない実感です。今や懐かしいセンテンススプリングのLINEも、なんて浅はかで、愚かで、でもむず痒くなるほど甘酸っぱくて、中二マインドがざわざわしたものでした。まさにスピッツが云うところの「誰もさわれない ふたりだけの国」ってやつ。
妻にはもちろん怒る権利があるわけですが、常識や正しさとは別の尺度が、恋愛には存在していて、そこから弾き飛ばされてしまったときに出来ることって、正直何もないな…とも思うわけです。どんなに世間が味方になってくれたって、倫理的に自分が正しくったって、いちばん大事な人の気持ちがこっちに向いていなければ、いくら相手を責めても報われることはないですよね。悲しいし、悔しいし、理不尽だけど、愛し合っている者同士が正義なのが、恋愛の国。
自分も結婚しておいてなんですが、一夫一妻制の結婚というのは、欠陥も矛盾も大いにはらんでいるシステムだと思います。
既婚者とそうでない人の浮気の罪の重さは、”法的に”違うということであって、契約書にサインした以上は契約は守りましょうということでしかない。まあ社会においては、その契約が重要なわけですが。
浮気相手に対する、"泥棒猫”という言葉がありますね。確かに、法的な契約が存在する以上、泥棒と見なされても仕方ない部分はあります。しかし、他人の心は、たとえ夫や妻であっても、もちろん親や子どもであっても、所有はできません。契約書によって相手の心を所有していると考えるのは、人の心を金で買えるという考え方にも似ていないでしょうか?

 

おっと、話がだいぶ脱線してしまいました。不倫のことはこの際、重要ではないと云ったはずなのに(笑)。
ともかく、今回の引退に至った経緯の重要度は、才能の枯渇>介護=自身の体力>>不倫なんじゃないかなと思います。
天才に限ったことではなく、人間はどうしても人生のピークを基準にしてしまうけれど、今は今のベストを尽くして生きることしかできないし、常に成長し拡大し続け、走り続けるべきとも思いません。だって、生命体である以上、物理的に無理だから。

 

小室さんにはとにかくしっかり休んで、宮崎駿監督みたいに、「引退するする詐欺じゃん」とか云われながらも、そのうちしれっと戻ってきてほしい。それがいつになってもいい。わたしなんてもともと、2011年という謎のタイミングでハマったファンですしね!

あけましておめでとうございます。
このブログも死んだも同然の状況ですが、年始に、未だブログを気にかけてくれている旅友達に会い、「せめて1カ月に1回くらいは更新してえな」とありがたいお言葉をいただきまして、年始くらいはやる気を出そうかなと思った次第です。
ただし、同じ友達に、昨年の年始にも同じことを云われたにも係わらずあのような更新頻度なので、今年も期待はしないでください。。。

さて、ただでさえ少ない更新なのに、不妊治療のつらい話ばかりを書いて、ますます読む気が失せてしまっている方もいらっしゃることでしょう。
閲覧者が少ないのをいいことに、今年もまた、掃き溜めの如くここでそのネタを書く可能性大ですが、リハビリがてら、今回は軽い話題にしようと思います。

この年末年始も一人実家に帰り、こたつにもぐるかセールに行くかという自堕落な毎日を過ごしておりました。
ぐうたらするならするで、せめて積読になっている本を消化できればいいのですけど、実家に帰るとつい、昔懐かしい、既に何度か読んだ本を読んでしまいます。
そのなかでも登場回数が多いのが、高河ゆんの『REN-AI 恋愛』、平中悠一のエッセイ集『ギンガムチェック」『シンプルな真実』、青木光恵の『きせかえごっこ』、青木景子の詩集、そして山岸涼子の短編集です。
半分以上マンガなのは、実家に帰ってまで頭を使いたくないという気持ちの表れかもしれません(笑)。

書名を聞いてもピンとこない方が多いと思いますので、ひとつずつ解説していきましょう。

高河ゆんという漫画家は、わたしくらいかもうちょっと上の世代のマンガ好きにとっては、特別なきらめきを放つ存在でした。
二次元のガラス細工の如き流麗な絵、中性的な美形のキャラクター、SFともファンタジーともつかぬ不思議な世界観。そして、研ぎ澄まされた詩のようなネーム。
それまで『りぼん』や『なかよし』のTHE少女漫画しか知らなかったわたしは、とにかくすべてが、新しくてかっこよく見えました。今でも、仕事で人間の絵を描く必要がある時、つい目の形を高河ゆん風にしてしまうほど影響されています。

初期の代表作『アーシアン』や『源氏』のようなSFやファンタジー作品が多い高河ゆんですが、唯一(?)妖精や吸血鬼や宇宙人などが出てこない、普通の世界を舞台に“少女マンガ”を描いたのが『REN-AI 恋愛』です。
時代はバブル絶頂期(1989年)、人気アイドルの藤緒理真を一方的に、熱狂的に愛する容姿端麗な男子高校生・田島久美(久美と書いてひさよしと読む。で、あだ名はクミちゃん、というネーミングがまたいい)が、追っかけ中に、理真のマネージャーである池柴という男にスカウトされ、理真に近づきたいという執念だけで芸能界に入るというストーリーです。
まだアイドルが今とは違う輝きを持っていた時代、アイドルを応援するための手段が葉書や電リクしかなかった時代の、ノスタルジックだけど硬質なおとぎ話。いわゆる芸能界モノにありそうな泥臭さはなく、あくまでも都会的なシャープさとキラキラ感に溢れています。
三田高校出身の高河ゆんが、実際によく遊んでいたであろう芝浦あたりの描写など、大阪の平凡な住宅街で育ったわたしには、たいへん眩しく見えたものでした。東京に移り住んで10年になろうとする今でも、わたしの東京の正しいイメージはそのあたりの世界で、今は東京の抜け殻に暮らしているような気持ちです(ヒドい言い草)。

どうやって久美ちゃんは芸能界で成功して、理真と結ばれるんだろう?! と続きを楽しみにしていたのですが、その後、作品は数奇な運命を辿り、現存する作品は、実に複雑怪奇な構造になっています。
まず、1、2巻が出たあといったん休載になり、10年後(!)に3巻が出て完結はしたのですが、2巻と3巻の間のストーリーにも10年の歳月が流れてしまい、いきなり久美と理真が夫婦になっているじゃないですか! しかも、その10年の歳月を埋めるべく『恋愛ーCROWNー』という焼き直し的なマンガが全4巻出ているというややこしさ。
わたしが好きでたびたび再読するのは、初期の『REN-AI』の1、2巻限定です。この2巻までのように、ヒリヒリしたテンションで続いて完結していたら、本当に大傑作になっていたんじゃないかと思うんです。『CROWN』は正直なところ、いくら主人公が変わらなくても、別物としてしか読めませんでした。絵もやや甘ったるくなってしまったし…。
『REN-AI』では、久美の理真に対するストーカー的な片思い、子持ちで年齢の離れたマネージャーを密かに好きになってしまう理真の報われない恋、マネージャー池柴の久美へのビジネスともそれ以上とも見える興味、久美に片思いする女の子の兄が妹に抱く度を超えた愛、デビューした久美にただひたすら「田島久美」と名前を綴った手紙を送ってきたファン心理など、恋愛が持つ狂気や執着が、さまざまなかたちで描かれます。
スタイリッシュな絵とネームに助けられてそうは見えないものの、ひとつひとつの恋愛は切実すぎて危なくて、さすがはやおい界のスーパースター、と妙な感心をしてしまいます。
ちなみに久美ちゃんは、連載当時のファンレターで「小室てっちゃんがモデルですか?それともウツですか?」という問い合わせが多かったそうです。藤井フミヤという声もあったらしいですが、実際は岡村靖幸がモデルとのこと。
美形で、勉強ができて、超生意気で、フェミニスト。でも過去になにか訳あって、女の子とばっかりつるんでいるという設定も気になるところでしたが、この伏線は、『CROWN』ではまったく回収されていないどころか、なかったことに…。

愚痴はともかく、とっくに終わった作品に未だに愚痴を云いたくなるほど、初期2巻は素晴らしい出来栄えでした。
この作品に限らず、最初の展開はいつも神懸かっているんですよね。同年代でやはり高河ゆんの洗礼を受けた友達は、「ふろしきの広げ方がすごい」と云っていましたっけ。でも、ふろしきを畳めないんだよね~(泣)。畳み方が下手くそというだけならまだしも、未完で終わっちゃうし!(ブログの更新の遅いわたしが云えた義理じゃないけど…まあこちらはアマチュアですし…)
他作品同様、『REN-AI』もいいネームが満載でした。
例えば、芸能界に入りたての久美が、理真に対して意地悪な言葉を投げつけてしまう場面で、久美はこう云います。
「ただ…あの口で …あの唇で あの声で ぼくの名前を言ってみてほしかっただけだよ」
今の時代では、※ただしイケメンに限るという注釈が必要になりそうですが、片思いの切なさが滲み出る良ネームです。
アイドルの定義について、理真のマネージャーである池柴さんが久美に話す言葉も秀逸でした。
「アイドルっていうのはねえ ただの魔法使いだよ 誰でも味方にしちゃう力を持ってる ただの魔法使いさ」
なんかこういう、素晴らしくキレのあるネームを読むと、これぞ高河ゆんの真髄!と今でも興奮します。

余談ですが、このころ出した『CYCLAND』という、エッセイ、マンガ、日記がごちゃまぜになったファンブックも、たまに読み返したくなる本のひとつです。
時代も、ご本人もノリにのっていたころでしたね。免許も無いのに高級車を買ったり、アシスタント全員連れて1カ月間ハワイに行ったりと、疾走感溢れる、なんともリア充な日々。生意気を絵に描いたような言動や行動にも、若気の至り独特の輝きがありました。
短いエッセイが10本程度入っているのですが、「美学」について、「ほんもの」についての話は、当時120%の勢いで頷きながら読んで、その後も何度も読み返した記憶があります。

最近の漫画も読んでみたいですが、『LOVELESS』はまた例によって未完なのですね…。

おっと、一つ目から長くなってしまいましたので、更新回数を稼ぐためにも、次に回すとしましょう(頑張れ、わたし!)。

たいへんご無沙汰しております。
今年も残すところ数時間、1年を振り返ると、思い出す出来事は仕事ばかりで、瞬殺で1年が終わったような感覚です。
月曜日はいつも辛いし、残業も多いし、相変わらずベーシックインカムの導入と労働なき世界を強く希求していますが、転職前に比べたら、砂を噛むような味気なさも減り、昨年から急激に増えた出張のおかげで、少しは旅気分も味わえて役得もあり、転職1年目に比べたら環境にも慣れ、昨年と今年と、久しぶりに1週間強の休みを取って海外旅行もできました。
まあ、仕事に関しては、周りの評価はともかく、悪くはない1年だったのかも。

しかし、私生活の問題…というとここ数年は専ら不妊ですが、こいつは全然改善しません。
昨年末で治療を一旦止めましたが、いろいろな要因から排卵日にタイミングを取れないため今さら自然妊娠も難しく、気休めに入れていた某有名クリニックの初診予約が8月に突然入り、それなら…と悪あがきして、卵管造影検査もご丁寧に再検査し(問題なしでした)、もう1回採卵→移植までしたものの、また失敗。
受精卵の成長が芳しくないと云われながらも移植日に桑実胚まで育った卵と、6分割した卵を2つ戻せました。昨年、凍結卵で全敗したので、今回は初期胚に変えてみましたが…。
出張先まで氷や保冷剤とともに注射を持ち歩き、恐怖しながら自己注射までしたあの努力(ってほどでもないが)はいったい…。
忘年会シーズンに突入し、さすがに連日酒を飲むわけにもいかず、風邪と偽ってソフトドリンクを飲み続けた日々はいったい…。
移植した日に、卵の写真を見ながら、思わず命の尊さなんか感じちゃって、両親に対する感謝やら何やらで崇高な気持ちに満たされ涙したのも、失敗したと今となっては滑稽な体験です。
柄にもなく、インテリアでしかなかった聖像に、これまたファッションでしかなかったロザリオを手に毎朝晩お祈りし、神にもすがってみました。物理的な努力に限界を感じると、人は信仰に頼るようです。要は神頼みによる潜在意識へのアプローチということで、引き寄せの法則などと同じようなものですが、聖書によく出てくる、目が見えない人が見えるように、歩けない人が歩けるようになる類の奇跡は、信仰には大きな力があるということを説いているのだと思い、確かに、過去にも神社に祈願して叶ったこともあるしなぁ…と、『祈りの力』という本などもせっせと読んだものでした。

…と、書いていて、自身の滑稽さが不憫にもなってくるんですが(笑)。
信じる力が足りないのかしら、やっぱり先祖供養を手厚くしないといけないのかしら…と、高額な壺などを買ってしまう人の気持ちがよくわかります。がんになって民間療法に縋る人の気持ちとかね…。
最近読んだ津田大介さんと東浩紀さんの対談に、東さんの「どんな逆境でも良い意味を見い出そうとして、人は自らをさらなる逆境に追い込んでしまう」というような発言があって、たいへん腑に落ちました。
まさにドツボに嵌るってやつですね。まだ壺は買ってないけどね!

不妊治療のダメージは、金銭的負担との相乗効果で、それはそれはもう酷いもので、毎回失敗するたびに心が焼け野原になります。
失敗回数が増えるとそれなりに学習して、失敗した時に己がどんな暴言を吐くかなどの予測はつくようになりましたが、それでダメージが軽減されるわけではありません(暴言を抑えることによって、二次災害は起こらなくなりますが)。
これが、保険が効いて無理なくやれる治療なら、もう少し救われるだろうし、また次頑張ろうという前向きさも生まれやすいと思うんですよね…。ブレイディみかこさんの本によると、イギリスは治療費が安いらしいですね。ご本人もそれで、40歳を過ぎて子どもを授かれたとか。
こんなギャンブルみたいな治療が保険診療になったら、生活保護と同じくらい世間から叩かれそうだけど、クリニックに並ぶ人の数を見ると、もう病気ってことで良くね?と思ってしまいます。まあわたしの場合は加齢で片付けられそうですが…。

わたしは、いともたやすく環境に左右される性質なので、物事が上手くいっている時は前向きで機嫌もいいのですが、何かが綻び始めるとあっという間に最低の自分勝手人間になってしまいます。
なかなかこの問題は、未だに理性的になることが出来なくて、失敗からの糧も得られず、焼け野原に花が咲くこともなく、毎回飽きもせず、夫に「わたしは子どもを産んであげられないので、離縁していただいた方がいいと思うんです」などと核爆弾を投げては、宥められ、或いは叱責され…を繰り返すばかり。
どうして自ら進んで不幸になろうとするの⁇と叱られると、全くその通りで、損得感情が人一倍強いセコい人間ですので、わざわざ損するような言動や行動を取るべきでないことは、頭ではクリアすぎるほどクリアにわかっているのです。
でもそこで、寛大な夫に感謝し、涙を拭いて笑顔になるべきところを、「そのうち愛想をつかして浮気するかも…」と、さらなる不幸と逆境を想像してますます気が滅入るという、マゾもびっくりの狂った思考回路もまた併設しており、まるで二重人格のようにそちらに引っ張られてしまうのです。
自分が男の立場なら、こんな女のいる家には帰りたくないし、もっと若くてかわいい、明るい女とやり直したいよなぁ…と思います。

齢も40を越えて、30代の頃のように若者ぶるのも躊躇われるのに、いつまで経っても自分に価値がないとかいう認識から卒業できず、大小の出来事につまづいては、自分の価値を疑ってしまう。
ようやく、こんなわたしでも、例え人間的に女性的に欠陥があっても存在を是としてくれる人と結婚までしたのに。
親から愛されなかったとか、不幸な生い立ちの持ち主でもないのに。
でもきっと、なんの根拠もなく自己否定に走ることはなくて、生きていると必ず社会や周囲から何かしらの否定的プレッシャーを受けるので、それが呪いのように自分の中で固定してしまっていて、人間を価値があるとか無いとか二元論で考えてしまうのかなあ…。なんだか、社会に負けた考え方のようで嫌なんですが、偉そうなことを云っても、周りは周り、自分は自分、と割り切れない弱さが拭えません。
この先、自分の属性が社会的にどんなに不利になっても、堂々と生きられる人になりたい。外的条件に依存しない本物の自信をそろそろ身につけたい。
友人が、結婚祝いの手紙に書いてくれた「嫌なことに負けないでね」という言葉が沁みる年の瀬です。

『首都圏住みたくない街』がベストセラーになっているようです。
あの「東京Deep案内」の初の書籍ということで是が非でも読みたく購入したのですが、500ページもの大ボリュームでありながら、ページをめくる手が止まらず、久々に読書で夜更かしをしてしまいました。
あまりの口の悪さと偏見、差別すれすれの文章など、賛否両論あるのは分かるのですが、それを差っ引いてもじつに読み応えがあります。
 

「関東一下品な街」「文京区の面汚し」「空気みたいな駅」「ハードコアな貧民窟」「救いようのない暗黒街」「戦後の貧しさをいつまでも引きずったような町並み」「東急ブランド盲信者が住まう」「吉祥寺の下位互換の街」「非リア充は干からびて死ぬしかない街」(それぞれどこを指すかは本をお読みください)など、いちいち表現が酷いのですが、いちいち噴いてしまいます。
わざわざ言語化すると反感を買うけれど、多くの人が潜在的に抱いている偏見も含めて共通イメージは概ね合ってるんじゃないかと思うのです。何よりも、マイナー出版社の本でありながら爆売れしていることが、「やっぱみんなそう思ってたんじゃん」という十分な証左。この本における街や沿線のキャッチコピーで、クイズかるたとか作ったら面白そうです。


一方で、わたしはむしろ、ここで堂々ランクインしているような治安の悪い下品な街にこそ、興味をそそられます。
凶悪さや下品さは時として格好のネタになります。もっと云ってしまえば、笑いにさえ結びつきます。ヨハネスブルグを筆頭としたアフリカ都市部の伝説的な治安の悪さは、バックパッカーの間で長年語り草になっていますし、「クレイジージャーニー」だって丸山ゴンザレスさんのスラムレポートが大人気ではありませんか。
最近は、都内において、買い物以外でわざわざ週末に出かけたい場所もなかったのですが、久々に街歩きへの情熱が滾りました。悪所とはすなわち街の秘境(魔境とも云えますが)。さくら剛さん風に云えば「首都圏住みたくない街――でも本当は行きたいかも」つまり、逆説的に旅情を誘う本なのです。
なにもあからさまな悪所でなくても、例えば、どマイナーな街や駅なんていうプチネガティブ情報でも興味をそそられます。「なんも無さそうなそこに、なにがあるのか?」それだけでもう、旅する理由に値しますよね!

本編は、街ランキングに各沿線解説、バラック街ガイド、某宗教大学の学園祭レポートなどなど「東京Deep」ならではの攻めた読み物が満載ですが、巻末にある首都圏の駅を網羅したミニ辞典がまた秀逸で、某池田大作氏の出身地からウンコ煮込みおじさんの存在まで、一生知らなくても困らないプチ情報がてんこ盛り。改めて、大都会の光と影が作り出す万華鏡に驚くばかりです。

わたしが上京して最初に長く住んだ金町もランクインしていました。当時はそんなに酷いとも思わなかったのですが、今にしてみれば夜道もちょっと怖かったし(露出狂に遭ったこともあります)、駅前にはうっすらとしたうらぶれ感が漂っていました。下町というほどの味わいもなく、全体的にマイナー感のある街でしたが、住みやすいと感じてもいたのです。
それは、故郷の大阪府某市もまた昔から悪評高く、殺伐としたマイナータウンだったからかもしれません。近年、郵便局で口座変更の手続きに行った際、わたしの書類を見て「某市って…あの某市ですか」と局員が思わず呟いたことがありましたっけ。まあそんなイメージの街です。わたしの実家のあたりは特に凶悪というわけでもないのですが、妙にイメージが悪いので、『京阪神住みたくない街』というランキングがあったら間違いなくランクインしそうです。しかしそもそも京阪神はランクインしそうな街だらけなので、意外と圏外かもしれません……。

東京Deepの著者・逢坂まさよし氏は、「大阪市内の市営住宅が建ち並ぶ低所得者層の非常に多い地域」で生まれ育ったそうです。
曰く、「人間の出来不出来は育った環境に大きく左右される。(中略)だからDQN地域には住むな」。
“住みたくない街”育ちだからこそ、この本の説得力も増すというものです。どんなに街を口汚く(笑)罵っても、それは同じサイドからの物の見方であり、例えば、松本智津夫死刑囚がかつて偽薬を販売していた薬局のある街の写真が載っているのですが、そのなんとも云えぬ殺伐とした郊外感を、肌身で理解している感じが伝わってくるのは、わたしの錯覚でしょうか。
余談ながら、ちょっと似た系統にも見えるロードサイドカルチャーの第一人者・都築響一氏は、麹町生まれ&育ちだそうです(これまたこの本で知った豆知識)。どんなゲテモノをもポップカルチャーに昇華させる才能は、これまた育った環境の賜物であろうなと妙に納得しました。この違いを知らせたくて、わざわざ「麹町」の項目に都築響一情報を載せたのかなと邪推します。

 

前々から、素人女のくせに新地巡りに励んでいたことからも分かるよう、世間では悪所とされる場所に、時折、変態的に魅入られることがあります。
それは、下衆な旅人の好奇心、刺激を求める心によるところが大きく、常々、現代の秘境とはそういう場所にしかないと思ってもいるのですが、もう少しややこしく考えてみますと、こういうこともあるのかなと思いました。
わたしは、かわいいもの、美しいものなどを愛する一方で、それらからどうしようもなく排除されているという思いを拭えません(それは単純な被害妄想ではない、と思います)。で、持っていないから、ギリギリの財布から捻出してでも自分のものにするのですが、決して血肉にはならないのです。若い女子を金の力で我が物にするも、孤独と劣等感から逃れられない老年男の哀れにも似ているでしょうか……。つまりは、体現者ではなく、鑑賞者、いや傍観者であるしかない、決して当事者にはなれない悲しい存在なのです。
そんな自分を、使い古した布団のように暖かく包んでくれるのが、悪所なのかもしれません。古民家とかレトロ喫茶とか、そういう生ぬるいレベルではなく、もっと凄まじく鄙びて、救いようがないほど最果ての場所。そんな存在を知るだけで、自分も生きていてもいいんだ、と安心するのです。そこには、無意識に見下した感情があるのかもしれませんが、自覚の上ではむしろシンパシーと云ったほうがしっくりきます。
と云いながらも、暴力や犯罪が絡む本気の闇に、自ら進んで身を投じることはできませんし、悪所で暮らすのはメリットよりもデメリットの方が遙かに大きいでしょう。わたしとて、見るからに下品そうなヤカラが集団で、我が物顔で大騒ぎしている様子などを見ると、ほんとうに気分が悪くなります(何様w)。
しかし、少しの綻びも違いも許さないような選民意識が蔓延する世の中で、しぶとく生き残る悪所の存在は、安心感、そして勇気さえもたらしてくれるのです。「ザ・ノンフィクション」で、比較的救いようのない回を視聴した後のように……。

「鉄は熱いうちに打て」…昔の人はいいことを云いました。
イベント直後の燻り感も、すっかり過去のこととなり、しぜんブログも放置…という、いつも通りの、悪い意味での自分らしさを発揮しておりますが、このままというのも後ろめたいので、続きを。でも今回で終わりです(汗)。

イベントで、想定されていた質問は多岐にわたっていたのですが、もちろんそれら全部に答える時間も必要もないことは承知のうえで、いちおう何が飛んできても回答できるように…と、簡単なメモを用意しておりました。
ということで、今回は、旅人一問一答と題して、もしこの質問が来ていたらこう答えていた、というのを列挙したいと思います。

①好きな国
会場の皆さんに配られたアンケートにも設問されていましたが、実際、これほどシンプルでありながら答えが難しい質問というのもないですね。
それでも、かつて長い旅を終えてから数年間は、必ずといっていいほどこの質問を受けていたので、いちおう用意せにゃなるまいて…と、しばらく使っていたのが「イエメン」という回答でした。あとはメキシコとかトルコとか、はたまたチベットと云ったこともあるかもしれません。
しかし、2017年夏現在、イエメンに代わる回答が編み出されたかというとそうでもなく、今回も頭を悩ませた結果、イエメンと書いた次第です。いったいベストオブ好きな国はどこにあるの!?
では逆に、嫌いな国は?と聞かれると、これまた今は特にないんですね…。当時はエチオピアやジンバブエ、インド、バングラデシュあたりを激しく恨んでいましたが(笑)、時の経過は偉大なもので、今ならもう1回行くのもやぶさかではないくらい。悪の権化みたいに云われているムガベ大統領も、藤永茂先生のブログを読んでから、ちょっと見方が変わったしなあ…。

②おすすめの国・都市
「好きな」は難しいけれど、例えば「かわいいものがいっぱいある」というような視点なら、まだ回答しやすいかも。今のところ、わたしの中でのかわいいのツートップは、メキシコとチェコですね。
メキシコは、死者の日に合わせて行ったので、ソノーラ市場の宗教&ガイコツグッズの充実度が半端なく、カラフルな墓飾り(って云うのか?)が満載だった強烈な記憶。とにかくメキシコのあれこれは、色使いがいい。カラフルで適度なキッチュ感。アートスクールのある街サン・ミゲール・デ・アジェンテは、いま写真を見返してもお店がハイレベルでした。サンクリストバル周辺の民族衣装もかわいい。チェコ(というかプラハ)は街そのものがファンタジックなおとぎの国の世界。

 

 ソノーラ広場にいた、独特の着こなしのおばさん。

③忘れじの料理
幸か不幸か、何を食べてもそれなりにおいしいと感じる雑な味覚の持ち主なのですが、おいしかったものは、
・エチオピアのアボカドジュース
・ラワールピンディのラグメン
・ベルギーで食べた生ガキ
いろいろと悲しい気分になったのは、
・キューバで食べたカサの夕飯
でした。白飯に極薄の豚肉が1枚だけ載っていたんですよね…。

 

 今思えばかなり贅沢なアボカド100%ジュース。

④絶景
アジア…エベレストやカイラスなどのヒマラヤ山系、アフガニスタンのバンデアミール湖、スリランカのシーギリヤ
ヨーロッパ=サントリーニ島
中近東=ワディ・ラム、サナア
アフリカ=サハラ砂漠、ビクトリア・フォールズ
南米=イースター島、レンソイス・マラニャンセス
中米=ポアス火山(今年の4月、63年ぶりに噴火して、湖の水がふっ飛んだというニュースが…;)

⑤人
何しろコミュ障気味なので、心温まる交流エピソードはわたしの弱点(笑)とも云うべきところ。それでも敢えて挙げるなら、中国・深圳で居候させてもらったMさん。今、どうしているのかな…生きているのかな…。

⑥笑わせてくれる国・モノ
国を上げて笑わせてくれるのは、インド、エチオピア。
すっかり有名になりましたが、ミャンマーやタイのド派手寺&地獄寺も、最高に脱力させてくれます。

⑦好きな航空会社
残念ながら、これは特にないんですよ…。イベントではこの質問だけ飛んできましたが(笑)。
だいたい、飛行機を選ぶ基準は、安さがすべて。リーマンパッカーになってからは、乗り継ぎのよさとかも考えるようになりましたけど、この航空会社じゃないと!というこだわりはゼロに等しいのです。初めての海外で乗ったシンガポール航空はたいへん快適だったけれど、それ以降は可もなく不可もなく。ただ、今年になって、ブリティッシュ・エアウェイズのエコノミー席に乗る機会があったのですが、その狭さにはけっこう驚きました。BAには勝手にいいイメージを持っていたので…。

⑧おすすめ旅ルート・スタイル・テーマ
ルートは、やっぱりアフリカ縦断一択ですかね。ウソです。
スタイルは、もうすっかりいい大人なんですけど、結局バックパッカーがいちばん気楽で、出張も帰省もすべてバックパックです(出張だと多少おしゃれ感を気にしつつも、やっぱりリュックなのです)。1週間以上だと、キャリー付きのバックパックを持って行って行きます。前の長旅が終わってからは、キャリー付きの、SOLO-TOURISTという、シブい国産メーカーのバックパックがお供です。
テーマは、昔から同じこと云っていますが、ありません!!もちろん、その時々のプチテーマはあるとしても(マレーシアでプラナカンの衣装&雑貨を買うとか、ギリシャで聖闘士星矢の舞台を訪ねるとか)、1つの旅に対して大きなテーマは無いのです。つまらない旅人ですみませんね!

⑨治安・怖かった話
旅人の9割がもっていると云われている、すべらない話ならぬ、危険エピソード。私の場合は、ジンバブエで強盗、インドで空き巣が2枚看板ですかね。だいぶ危険度は下がりますが、バングラデシュで深夜の覗きもなかなかの恐怖でした。あとは、闇両替も怖いですよね。結果大丈夫だったとしても、そこまでのプロセスが心臓に悪い。
一般に、治安が悪いとされる街では危険度も上がるわけですが、基本的に人が普通に住んでいる場所で、白昼堂々命の危険を感じるようなことはあまりないかと…。昨年、マニラの地図空白地帯・トンドにも行ってきましたが、さわりだけしか歩いていないこともあり、「歩いてるだけで殺されそう」なんて雰囲気はさすがになかったです。
一瞬ですが「死」が頭をよぎったのは、パキスタンのフンザで、ウルタル氷河のトレッキング中に酒を飲んで、呼吸困難になったときでした。
ベトナムの夜行バスで、後ろの席のイスラエル人にゲロを吐かれたときも怖かった、というかショックだったわ…。

⑩乗り物
地獄(凶悪)度合でいうと、エチオピアの全ての、チベット→ネパールまでの乗り合いバス、スーダンの列車が3強(3凶)。意外と楽しかったのは、寝床が持参のハンモックというアマゾンの船旅。

 

 半屋外状態ですが、不思議と不潔な感じはなかったアマゾン船。

⑪体を壊した話
ケニアで盲腸、ミャンマーで肺炎、ジンバブエで頭部炸裂(三大疾病話)。

⑫旅の必須アイテム・おすすめアイテム
Kindle paperwhite(ただしガイドブックは紙の本がおすすめ)
ハウジング(ダイビングには必須。水中写真はぜひ撮りたい!でもこないだのフィリピン旅行で部屋に忘れ、無理やりむき出しのカメラで潜ったら敢えなく水没。。。))
耳栓(音に敏感なので…でもつい忘れて後悔する)
コイルヒーター(長期の場合。湯が手軽に沸かせると幸せ度がアップ)
ウインドブレーカー(防水防雨そして軽量、山も行ける)
ぎょさん(昔は便所サンダルを持参していたが、ぎょさんは便所サンダルの丈夫さと、ビーチサンダルのかわいさを兼ね備えている)
大判のカラフルな布(未だに、ケニアで買ってメキシコで無くしたピンクの布の万能さを思い出しては胸が痛む)
芯なしトイレットペーパー(急なトイレ、ハンカチ代わり、手持ちの水で濡らせばウェットティッシュにも)
SASUKE(万能プラグ)

⑬〇〇ではこれを買ってくる
これはネタがない…あまり国をリピートしないので…。

⑭旅先へのおみやげ
ほとんど持って行かないけど、フリクションのボールペンは喜ばれそうな気がします。

⑮旅のモットー
まあこれも、旅のテーマと同じで特に決めてはいないのですが、自分の旅傾向としてあるのは次の3つ。

予約しない
1週間程度だとそうもいかないけれど、できることなら無予約・無計画で旅したい。これはネットの発達で、かえってやりやすくなったと思います。ギリギリまで決めなくても、ネット環境さえあれば、agodaとかでポチッとするだけで直前予約もできますしね。

写真は多ければ多いほどよい(むしろ撮りまくる)
心に焼き付けたはずの画像は、デジタルデータよりも早く風化します。大部分は後で見返さない可能性が高いけれど、荷物になるものでなし(フィルム時代は荷物になりました)、無いよりはあったほうがいいと思います。

民族衣装を着る
コスプレを楽しみつつ、現地へのリスペクトも示せる優れもの。

⑯宿・ホテル
ハンガリーのテレサハウス。初沈没宿。
最近だと、フィリピンのソルソゴンで泊まった、世界的建築家ミロ・ナバルが設計した「シアーマホテル」。今のレートで1泊約10,000円。シックだけど高級感溢れる美しいホテル。これで10,000円だったらだいぶ得した気分になれます。

⑱旅テクニック
庶民(ふつうの市民)に混ざる
いざとなったら泣く(決しておすすめはしません)
洗濯はシャワーとともに行う
目立たず、しかし堂々と歩く(昔、歩き方ですぐ日本人だと分かったと、日本人の在住者に云われたことがあり、以後気をつけているつもりです)

⑲トイレ
これまで最低だったトイレは、1999年の中国・昆明駅前のトイレ。あまりの臭気に鼻のみならず、目が潰れそうになった(空気が黄色かった)。2004年時点でも、中国の田舎のトイレは涙なしには入れなかったところも…。

⑳クリーン
今まで泊まったなかでいちばん清潔で高級な宿は、タイの「チバソム」(もちろんビジネストリップ)。今まで乗ったなかでいちばん清潔で高級な乗り物は、チバソムまでのリムジン(3時間も乗った)。

21)美容
今は分かりませんが、化粧水という商品は諸外国にはなかったですね。あるとしたら韓国・中国くらいでは?

22)〇〇へ行くなら△△へ行ってみて!
今あるのか不明ですが、ボリビアのラ・パスにあった「アレキサンダーコーヒー」でチーズケーキを食べてみてください。

23)面白い、変、すごい、きれいなもの
面白さ、変さ、すごさ、きれいさを兼ね備えているのは、メキシコのウルトラバロック教会たち。

 

…いかがでしたでしょうか?
最後のほう、かなりやっつけ回答になっているのがあからさまですが(笑)、まあこんなことを話そうと思っておりました。後で思ったのは、これだけの数のトピックなら、くじ引きトークでもよかったかもしれないですね。客席の方にも引いてもらったりして。ともあれ、いろいろと勉強になったイベントでした。改めて、お越しくださったみなさま、どうもありがとうございました!